2時22分の憂鬱⑥
その日から、私は外へ出ることができなくなった。
駅からほど近いビルの自宅兼事務所は、35㎡の1LDK。玄関を入るとすぐに、商談スペースを兼ねたリビング・ダイニングがあり、パーテーションで区切った奥が作業スペース。この他には、プライベートな寝室があるだけの狭い造りだった。
当初、改札の向こう側に潜んでいたはずの、得体の知れないモンスターは、今やビルのすぐ側までやって来ていた。
何か具体的な姿が見えるわけではない。また、恐ろしい声や、呪いや恫喝の言葉が聞こえるわけでもない。
けれども私の中では、「そんな気がする」と言う程度のものではなく、「そうに違いない」という確信に近かった。
もう自分一人では、改札も越えられないし、家から出ることもできない。食べることも、満足に眠ることさえできない。とうに症状と合わなくなっている処方薬を、時折りビールで流し込むことしかできなかった。
夜と昼とが交錯し、朝方と夕方の区別がつかない。
閉め切ったカーテンの隙間から、時には強い日差しが差し込み、時には街灯の明かりがこぼれてくる。
私は、助けてほしかった。
たった一人で震えていることに、もう耐えられなかった。
家にいながら外の世界とつながる通信手段は、固定電話しかない。私は毎夜、受話器を握りしめた。
学生時代からの友人の多くは寿退社して、今は子育てに追われている。仕事仲間には、病気のことも本音も話せない。
私は、知らない人と話したかった。私のことを知らない、会ったこともない人に、切々と苦しみを訴えたかった。
受話器を下ろすと途端に、不安で不安でたまらなくなる。だから私は、空が明るくなるまで、何度も繰り返し電話をかけ続けた。
「病院へは、行きましたか?」
私の訴えを一通り聞いた後、「いのちの電話」の人は必ずそう問いかける。
行きました。行っていました。薬も貰っています。それでも駄目なんです! どうにもならないんです!
「⋯⋯私は、あなたに、生きていて、ほしいです」
諭すように、そう言われて、私ははじめて自分が、死に近いところにいることに気付く。この時まで私は、死にたいと思ったことなど一度もなかった。少なくとも、そんな自覚はなかった。
「朝になったら、もう一度、病院へ行ってみませんか? お医者様は、いつだってあなたの味方ですよ。きっと、いい方法があるはずです」
思考のまとまらない、ぼんやりとした頭で話を聞きながら、私はあの待合スペースの混雑を思った。
ずっと小刻みに震えている人や、時折り奇声を発する人たちと一緒に、固いベンチで4時間もの間、ただひたすら待ち続ける。私はやはり、あの場所へ行ける気がしなかった。
朝になって開院時間を過ぎると、私はすぐに震える手で、病院に電話をかけた。そして、主治医に回してもらえるよう、一生懸命に頼んだ。
「先生は現在、診察中です。電話に出ることはできません」
総合受付の女性は、何度頼んでも淡々と、同じ言葉を口にする。
私は医師と、どうしても話がしたかった。正確に言うと、この状況を何とかしてほしかったのだろう。「いのちの電話」の人に言われたら、今度は医師にすがる。私にはもう、正常に判断する力がなかった。
断られてもなお、私はしつこく何度も電話をかけた。するとしばらくして、主治医から電話がかかってきた。
「⋯⋯どうされましたか?」
と、のんびりとした口調で医師が聞く。私は、途切れ途切れに何とか状況を説明した。
家から出られないこと。食べられない。眠れない。酷い動悸で心臓が飛び出してしまいそうで、苦しくて苦しくてたまらないことを訴えた。
「⋯⋯では次回、お薬を変えてみましょう」
医師は、電話を切ろうとする。
「⋯⋯それまで私はどうしたらいいんですか⁈」
必死で食い下がる私に、医師は言い放った。
「カウンセリングを続けながら、しっかりと食べて、よく眠ってください。あまり深く思い詰めないように」
私は言葉を失い、脱力した。何を言っても無駄なのだ。
受話器を下ろした後、私は捨てられた子犬みたいに、わんわんと泣いた。感情が壊れて、悲しいのか、悔しいのか、寂しいのか、何だかわからない。ただ苦しい。
電話なんか、かけなければ良かった。医師は結局「薬の売人」に過ぎないのだ。私は前よりも、もっと深い絶望の中にいた。
それからいくつかの夜と昼を過ぎて、巡ってきたカウンセリング予約の日。
「電話でのカウンセリングもできる」という言葉だけを頼りに、直通番号のメモを握りしめて、私は約束の時間を待った。
カウンセラーは私にとって、向こう側の、なりたかったもう一つの自分の姿でもある。妬ましさや悔しさの、負の感情も抱いていたけれど、それと同時に、純粋な尊敬や憧れもあった。
カウンセラーは最初の日、確かに「これからのことは、一緒に考えていきましょう」と言っていた。
私は、時間ぴったりに電話をかけた。