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投資#387 偶然に身を開く


書籍の情報


書名:仕事なんて生きがいにするな 生きる意味を再び考える
著者:泉谷閑示
発行所:株式会社幻冬舎
発行日:平成29年1月

書籍の抜粋


これまで述べてきたように、私たちが「遊び」から遠ざけられてしまうのは、すべて「頭」の働きによるものでした。しかし、私たちはこの「頭」をなくすことはできませんし、何度も述べたように「頭」あってこその人間でもあるわけですから、この「頭」とどう付き合ったらよいか考えてみる必要があります。
そこで、この「頭」の縛りをいかにしてうまくかわすことができるか、ということについて考えてみましょう。
まず、「頭」の計画性や合理性を回避するためには、その対極にある「即興」という概念を積極的に用いてみることがとても有効な方法です。このキーワードを「頭」に置いて日常を過ごしてみると、何でもない事柄が、実にスリリングなものに変貌していくのです。
例えば、ある休日にどこかに出かけたくなったとしましょう。ところが、格別どこかに行きたいとアイデアも浮かばない。そんな時には、すべてを「即興」に委ねて行動してみるわけです。
交差点に差しかかったら、どちらに進みたいかを「心=身体」に聞いてみる。具体的には、足がどちらに一歩を進めるのか、車なら指がウインカーをどちらに出すか、つまり身体に委ねてしまうわけです。
そして、このようにしていきついた場所でも、そこで「さあ、ここでどうやって楽しむのか?」というお題が出たと考える。このようにして、外出を「即興」的に楽しんでみるのです。あらかじめ情報収集して出かけるのと違って、かなりの思考の瞬発力を必要とされることが実感されるはずです。つまり、これは子供時代に経験もしくは夢想した、あの「探検」に相当する「遊び」なのです。
(中略)
このように、あえて無計画、無目的に、自分の行動を「即興」に委ねてみることによって、私たちに決まりきった日常が、ささやかながらもエキサイティングな発見と創意工夫に満ちたものに変貌するわけです。これを私は「偶然に身を開く」と呼んでいます。
さて、この「即興性」に加えてもう一つ大切なこととして、「面倒臭い」と感じることをむしろ積極的に歓迎してみるという考え方があります。
「頭」には、そもそも効率よく結果を得ようとするせっかちな性質があって、「面倒臭い」という感覚はここから生じてきます。勘違いされることが多いのですが、この「面倒臭い」という感覚は「心」の声ではなくて、「頭」由来のものなのです。
ですから、私たちがこの「頭」の効率主義由来の「面倒臭い」に惑わされないために、敢えて逆に「手間のかかる分、いい暇つぶしになる」「すぐにできないところが面白い」と考えてみるわけです。
(中略)
これはいろいろなことについて言えることですが、私たちは何かを始める際に、すぐにプロのところに習いに行くことを考えてしまいがちです。しかし、これをあえてしないのも、別段何の罪になるわけでもありませんから、「遊び」としては面白いのではないでしょうか。当たり前のことですが、どんなジャンルでも少なくともその創始者は、何の教科書もなく指導者もない状況の下で、一から手探りで試行錯誤を重ねたはずなのです。
効率良く、早急に仕上がる結果を求めるのであれば、もちろん熟練した人に習った方が手っ取り早いのでしょうが、これこそが正に「頭」の発想に他なりません。資格を求めたりプロになろうとしていうものでもないならば、どんなに勝手に自己流で楽器を弾いたとしても、勝手なお花を生けても、自己流の書をたしなめても、ちっとも構わないのです。自分自身で試行錯誤して、一つ一つ勘どころをつかみつつゆっくりと進んでいくことは、習ってできるようになるのとは一味違った、面白い経験になるのです。
「創造的遊戯」とは、こんな風に、自由で型破りなものです。「遊び」とは、子供のように「好奇心」と「創意工夫」によって生み出されるものですが、既存の制度の中で「習う」ことによって、効率的に上達はしても、「好奇心」自体があべこべに萎んでいってしまうようなことが、案外、少なくないのが実情なのではないでしょうか。
私たちは、もはや「何者かになる」必要はなく、ただひたすらに何かと戯れていていもよいのではないか。それこそが、「遊び」の真髄だと思います。
ちなみに、我が国には「継続は力なり」という格言が好まれ、「三日坊主」を恥ずべきと考えるようなストイックな価値観が根強くあります。しかし、この「ひとたび始めたのなら、続けて何ものかになるまで精進しなければならない」という考え方では、軽みのある「好奇心」や「遊び心」が委縮してしまいかねません。
「心」の向くままに気の向くままにやってみる。気が向かなければやらない。「継続」などと堅苦しく考えたりせず、ただ壮大な人生の暇潰しとして「遊ぶ」のです。

第5章 生きることを味わうために
生活を「遊ぶ」ための工夫

抜粋した理由

他の本にも
似たようなことが
書いてあるぞと
思いました。

いつも降りない
駅で降りてみる
類で、

気の向くままに
歩いてみるとか

と思い、抜粋
しました。

似ていていたとしても
どこが違うが見どころ
だと思いました。

―――感想1―――

このように、あえて無計画、無目的に、自分の行動を「即興」に委ねてみることによって、私たちに決まりきった日常が、ささやかながらもエキサイティングな発見と創意工夫に満ちたものに変貌するわけです。これを私は「偶然に身を開く」と呼んでいます。

第5章 生きることを味わうために
生活を「遊ぶ」ための工夫

即興ですか!?

これまた
難しそうな
解決策!!

だいたいが
計画的に
すすめている
事が多いですから、

変わったことを
しようしたら、

「即興」なの
ですかね。

そんな瞬発力が
あるか心配です。

―――感想2―――

これはいろいろなことについて言えることですが、私たちは何かを始める際に、すぐにプロのところに習いに行くことを考えてしまいがちです。しかし、これをあえてしないのも、別段何の罪になるわけでもありませんから、「遊び」としては面白いのではないでしょうか。当たり前のことですが、どんなジャンルでも少なくともその創始者は、何の教科書もなく指導者もない状況の下で、一から手探りで試行錯誤を重ねたはずなのです。

第5章 生きることを味わうために
生活を「遊ぶ」ための工夫

こう指摘されると、
なるほど・・・
すぐプロのところへ
習いに行こうとします。

そりゃあ、素人に
教えてくださいと
言っても、

お互いに素人だと
埒が明きません。

ですから、プロに
習いに行きます。

もちろん、教えるのも
うまいプロのところへ
ですけれども。

遊びの場合は、
習うのを一旦
保留するという
のですね。

これはいいかも
しれません。

創始者は、その人
自身が一番
面白かったのでは
ないかと思います
ものね。

―――感想3―――

私たちは、もはや「何者かになる」必要はなく、ただひたすらに何かと戯れていていもよいのではないか。それこそが、「遊び」の真髄だと思います。

第5章 生きることを味わうために
生活を「遊ぶ」ための工夫

何かを始めよう
となると、

目標設定があって、
時期を決めてと

そして、何者か
になろうと
しているのですね。

○○な私とか。

これは遊びと
割り切ったならば、

もう、戯れて
いればよくて、

継続しなきゃダメとか
三日坊主はダメとか
ではなくて、

気の向くままに
気軽に試し、
飽きたら次へと
いくのが、

戯れることだと
理解しました。

こういう時間が
とれていませんが、

あってもいいですね!!

即興で行動し、
偶然に身を開きましょう♪

まとめ

偶然に身を開く


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