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世界観を一変させた神秘体験

下記の文章は「自叙伝」の一部抜粋である。

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二十六歳の時に私の精神、全意識を震撼させ一変させるような事件が生じた。

 例外なく、孤独という意識状態を所有している魂は独占欲の異名でもある。その事は私自身が良く分かっている。孤独の深さに準じてその強度は増す。真の孤独に至れば孤独という概念は消失する。


 当時、私はスナックで無給で働いていた。
私は食を断ち、七日も経てば自分が無感情になるのは知っていた。ただ、包丁で玉ねぎなどを刻んでいると、不意に自分の手首を落としたくなるという衝動が何度も湧いた。
 私は自身のバランスを取る為に全ての行為に反対の概念を念仏のように繰り返していた。私が食を断っている時にも客には様々な反応が生じた。私はそれらを全てを強固な意志を用いて意識的に無視した。

 私は当初、自分自身に何が起きているかが分からなかった。強烈な魂の内的神秘体験であった。私の持っていた足場が一挙に消滅した。
 私の生い立ちや環境、あらゆる経験、体験の意味が内側から瞬時に照らされた。私の頭の内側は眩しい光に満ちていた。さらには、脳味噌がショートして破裂寸前の危機的状況でもあった。日常生活の中で、心身ともに耐え難い、名状しがたい苦痛が止む事は無かった。私は自分自身を保持するために強度の緊張と強固な意志が必至であった。
 私は自宅に帰っても殆ど眠らず、常に正座して一点を凝視していた。その様子を見ていた父は「幸吉も狂った」といって嘆いていた。
 自分自身の心身を保つためには言葉が不可欠であると痛感した。
 私は私の様な体験をしている人物を歴史上に探した。私の体験した状態を理解できるものは身近には存在しなかった。
 最も不快というのも不快な人間界に自ら踏み込む羽目になったのである。

 私は言葉の世界に踏み込むのに若干の不安はあったが、覚悟して踏み込んだ。まず、骨格として哲学、肉付けとして心理学、さらに人間関係の処し方は文学と。無論、店の仕事をしながらである。私は近所の書店を片っ端見て回った。私の異常な直感力と高速で活動する思考は書物の背表紙に書かれているタイトルと著作の頭と最後の数ページを読めば描かれている内容はすぐに分かった。
 私は哲学者ニーチェの「ツァラトゥストラ」が自分の極度に緊張した日々の意識状態のバランスを保持するのに適していた。ニーチェの翻訳された著作は殆ど読破した。哲学者はプラトンやアリストテレス、ヘーゲル等、山頂に居る存在を主に読む。他はその亜流に過ぎない。
 近代のニーチェやアルチュウル・ランボオ以降に影響を受けた一般に実存主義と称される哲学、文学は相対的世界観に呪縛され、無方向が方向、或いは無意味が意味という実体無き世界観を起点とした考察でしかなかった。

 絵画ではキュビスムから抽象表現へという運動が連動していた。相対的意識とは一切の事物を公正に、偏見なく観る、という一視点にすぎない。ただ、単なる動物ではない人間が目的や方向を喪失したらどうなるかは言わずもがなである。
 私が文学作品に初めて触れたのは十五歳の時で、兄が所有していた文庫本であった。読んだのは二、三冊程度である。ゾラの小説を読んだときは背筋に寒気が走った。人物も含め、光景、情景描写がただの眼、それも単なる肉眼のみで捉えられていた。ゾラの世界観は自然科学的観点から書かれていた。私はセザンヌが旧友のゾラと袂を分かった意味を理解した。セザンヌはリンゴも人物も同じだ、と言っていた。さらに構成を重んじ古典的なバランスと深みを求めた。しかし、セザンヌの胸中には深い信仰心があった。彼に影響されたピカソはその相対的意識の徹底的な表現に衝撃を受けたのである。既にピカソはニーチェやアルチュウル・ランボオを読み、知っていた。私が私であって私ではない、しかし私は私として存在する。この足場無き空間に於いてわが身を世界と如何に処すべきか?と懊悩していたからである。
その後の抽象表現者達の悲惨、悲劇とも謂える内的苦悩は相対的、虚無的世界観を打破し得なかったという点にある。多くの抽象表現者たちは東洋的無常観に支えを求めた。相対的世界観の浸食は速度を増した。一切を等価値と看做す思想の影響は哲学や心理学、文学にも及んだ。

 私が私であって私ではない、それでも私は個体として確かに存在する。この意識状態で生存が無意味であるという地点に留まり、一歩も先に行けぬとすれば通常の個人は耐え得るものではない。観念的、心情的であれ、この足場無き空間に魂は耐えきれずに自滅、破滅、難破する。

 私は日本にも私と似た、或いは同じような体験をした人物はいるのかと探した。私が見出したのは小林秀雄であった。
 私は小林秀雄が難解な批評家であるとは知らなかった。自己の想いを率直に書いている内容が皆は何故理解できぬのであろうか、と。
 無論、理解や共感は同等かそれ以上の意識状態でなければ測る物差しが無く未知の世界なのである。


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