チチカカ湖上でのハッピーバースデー
南米のアンデス山脈。ペルーとボリビアの国境にチチカカ湖はあります。
チチカカ湖は、標高3800mほどの高地にあります。つまり、そこは富士山の山頂よりも高い場所です。
そのせいか、空が近くて、とにかく青い。湖も穏やかで、とにかく青い。青、青、青。
遠くに見える山の緑と、アンデスの人々が住む家のレンガ色を除けば、とにかく青い絶景が、視界いっぱいに広がります。
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僕は、小さな船に乗って、この青い湖を進んでいました。
目指すところは「太陽の島」。湖上に浮かぶ聖なる島です。インカ帝国の発祥の地として信じられている場所です。
船の乗客は15人ほど。皆、観光客です。小さな船なので、2列になって、お互い向かい合って座っています。
僕と同じ1人旅の乗客もいましたが、ほぼカップルや友人同士です。4人グループの旅行者もいました。
僕だけが、東洋人です。僕は、船の先端に座って、1人、進行方向を眺めていました。
日差しが強いけど、空気はカラッとしていて、汗をかくほど暑くはない。静かな湖に、船のモーター音が響いていました。
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4人グループがにぎやかになりました。男女2人ずつの彼らは、ヨーロッパから来たようです。たぶん僕と同じ学生です。とっても楽しそうに話しています。
2人の女子は、どちらもブロンドヘアで白い肌。1人は控えめな印象で、もう1人は早口で積極的な感じです。
どうやら、今日は、控えめ彼女の「誕生日」らしいのです。
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早口の彼女が、船の乗客たちに向かって言いました。
「ねえ、今日は、この子の誕生日なの。みんな、一緒にハッピーバースデーの歌を歌ってくれない?」
乗客たちは、一斉に、賛同の拍手をしました。
早口の彼女は続けました。
「そうだ、皆さんはどこの国から来たの?それぞれの国の言葉で、ハッピーバースデーを歌うのはどうかしら。ねぇ、とっても素敵なアイディアじゃない?」
そう言うと、乗客たちは、お互いに自己紹介をはじめました。
ただ、僕だけ浮いていました。船の先端に座る東洋人だけは、うまく会話に入れずに、完全に取り残されました。
でも、僕はそれでいいと思っていました。なんとなくみんなの流れに乗っかって、早くこの場が過ぎればいいなと、そんなふうにすら思っていました。
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ところが、早口の彼女が話しかけてきました。
「ねえ、あなたはどこの国から来たの?」
「ジャパンです。」
「えー、すごい!日本から来たのね!」
(そうです。日本です。地球の裏側の小さな島国。エキゾチックな黄金の国「ジパング」から来たんですよ!)
「ねえ、日本にも、ハッピーバースデーの歌ってあるの?」
「うん、あるよ。」
「日本の言葉では、どうやって歌うの?」
「同じだよ。ハッピー、バースデ~、トゥーユー、って」
「ううん、そうじゃなくて・・・」
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(わかります。あなたの言いたいことはわかりますよ。ハッピーバースデーの日本語歌詞バージョンが知りたいんですよね。もちろん、日本にもハッピーバースデーの歌はあって同じメロディーです。そして、日本語で、ハッピーバースデーは「おたんじょうびおめでとう」といいます。でも、歌うときには、日本語で「おたんじょうびおめでとう」とは歌わずに、英語で「ハッピーバースデー」って歌うんです。)
僕の英語力では、到底伝えられませんでした・・・。
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そのときです。4人グループの1人の男が言いました。
「いや、俺は、日本語バージョンを聞いたことがあるぞ。うーん、なんだっけなあ。思い出せない。日本語でハッピーバースデーって何ていうんだっけ?」
僕は、日本語で答えました。
「日本語だと『おたんじょうびおめでとう』というけど。」
「そうそう、それだ!」
彼は、1人でうなずいてわかったような顔をしました。僕は、イラっとしました。
(こいつ、知ったかぶりをしている。女子の前でカッコをつけている。日本語の歌詞のハッピーバースデーなんて、日本人の僕ですら聞いたことはないゾ。)
けれども、僕は自己主張することもできずに、結論はあいまいなままで、時間だけが流れました。
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「さあ、みんなで歌いましょう!」
ハッピーバースデーの歌唱が始まりました。
各国代表が自国の言語で歌います。たぶん、スペイン語やら、イタリア語やら、ポルトガル語やら、ドイツ語やら、僕にはわかりませんでしたが、いろいろな言語で。
そして、それは、まるで古今東西ゲームのように、あるいは、せんだみつおゲームのように、あるいは、90年代カラオケメドレーで1曲ずつ隣の人にマイクを渡すように、順番が回ってくるのです。
必然的に、船の先端にいる僕が最後になります。しかも、日本語を話す人はいませんから(そもそも日本語歌詞はないけど)、僕は、それが独唱となることを悟りました。
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僕は、日本人ですから、場の空気を読めるんです。
この場の雰囲気を乱してはいけない。知ったかぶり男子にはイラっとしたけれども、今日が誕生日の控えめ彼女を悲しませてはいけない。
僕は覚悟を決めました。やると決めたらやる。手は抜かない。心を込めて相手を思いやる。
いざ、日本の魂を見せてやる!歌おうじゃないか、日本語で!
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僕は、乾燥した唇を舌で舐めて潤しました。
順番が回ってきました。心の中でリズムをとります。
(1・2・3・せーの、ハイ!)
「おたん、じょーび~、おめで、とう~・・・」
歌詞がメロディーに乗らねーー!!
リズムがめちゃくちゃになりました。
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ふと、僕は、思いました。
(おそらくその昔、ハッピーバースデーの曲を邦訳しようとした人がいたのではなかろうか。しかし、実態は、邦訳されずに英語のままになっている。今、その理由がわかった気がする。日本語歌詞をこのメロディーに乗せること。それはどうやっても無理なんだ・・・。)
しかも、僕の歌は音程もズレていました。それは自分でわかりました。
(もしかしたら、標高が高い影響で、ピッチがズレるのかもしれない・・・)
違います。そんなことはありません。忘れていました。僕は、音痴だったのです。
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「おたん、じょーび~、おめで、とう~・・・」
2フレーズ目も、リズムと音程がぐちゃぐちゃになりました。
すると、乗客たちから、手拍子が沸き起こりました。
もう、必死です。
「おたん、じょーび~、Dear、あーなた~」
(???)
(まずい、完全に取り乱した。リズム、音程に気を取られて、日本語の歌詞がよくわからなくなり混乱してしまった。「お誕生日Dearあなた」ってなんだろう。アドリブって難しい・・・)
最終フレーズは、勢いです。
「おたん、じょーび~、おめで、とう~!!!」
僕は、独唱をやり切りました。
拍手喝采でした。もちろん、その拍手は、控えめ彼女に向けられたものでしたけど。
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「和の心」
チチカカ湖の上で、なぜか、僕は感じたのです。相手を尊重し、時として、恥もいとわず誠実に思いやること。独りよがりの考えですが、もしかしたら、それは、世界を1つにする力を秘めているのかもしれない、と。
控えめ彼女は、僕の独唱を喜んでくれていたと思います。たぶん僕が歌ったハッピーバースデーは、リズムも音程も絶妙で、しかも謎の言語で歌ったために、エキゾチックに聞こえたのだと思います(・・・そんなわけありません)。
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青い湖の上を進む僕たちは、不思議な一体感に包まれて、騒々しく盛り上がりながら、太陽の島に着きました。
振り返ると、チチカカ湖の青い湖面が、太陽の光に反射してキラキラと美しく輝いていました。
「お誕生日おめでとう。この先も良い旅を!」
島に上陸した僕は、このさわやかな空気の中で、とてつもなく、脇汗をかいていることに気づきました。