暮らしと学問 5 目的なしの勉強の楽しさ
(はじめに)福澤諭吉の自叙伝『福翁自伝』を読み直すなかで、勉強することの楽しさの秘訣を考えてみました。何かを目的にした勉強は辛い営みであることが多く、目的のない勉強は楽しい営みなのかも知れません。
ふつうの子どもだった福澤諭吉
ある意味では、「勉強の天才」あるいは「勉強の神様」といってよいのが教育者・啓蒙思想家として知られる福澤諭吉(1835年-1901年)ではないでしょうか。蘭学を頂点まで極めてのち、開国後の横浜でオランダ語が全く通じないことに愕然とし、一から英語を勉強し直したことは有名な話です。
「横浜から帰った翌日だ、一度(ひとたび)は落胆したが同時にまた新たに志を発して、それから以来は一切英語と覚悟を極めて」勉強したそうです。なかなかできる話ではありません。
しかし、その福澤諭吉とて、生まれながらにして「勉強の天才」ではなかったようです。福翁自伝の中では次のように幼少時を回顧しております。
殊(とく)に誰だって本を読むことの好きな子供はない。私一人が嫌いということもなかろう、天下の子供みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから、休んでばかりて何もしない。手習いもしなければ本も読まない。
(出典)福沢諭吉(富田正文校訂)『新訂 福翁自伝』岩波文庫、1978年、14頁。
本を読むのも嫌いであれば、手習いも、当時の一般的な下級武士の子息よりも遅く始めたのが福澤諭吉ですが、なぜ、学びの天才へと飛躍することが出来たのでしょうか?
目的なしの勉強
蘭学との出会いは、19歳の長崎でのことです。アルファベットの「二十六文字を習うて覚えてしまうまでには三日も掛かりました」と記しておりますから、私たちと福澤諭吉には変わりはありません。福澤が私たちとかけ離れたスーパーマンではないということですよね。
ただ勉強は苦でなかったようで、それは勉強することで何かを実現しようと考えいたからではなかったことに由来しているようです。
ただ田舎の中津の窮屈なのが忌(い)で〳〵(いやで)堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば難有(ありがた)いというので出掛けたことだから、……
(出典)福沢諭吉、前掲書、28頁。
勉強が苦にならない秘訣はどうやらここにありそうです。
いったい、何のために、私たちは勉強しているのでしょうか?
それを問うたとき、大抵の場合、なんらかの目的が設定されていることが多くありませんでしょうか? わかりやすく言えば、いい学校や大学に入るために勉強する。あるいは、いい会社に入るために勉強する等などです。勉強が常に何らかの目的に隷属した手段として位置づけられる限り、勉強は苦になってしまうのではないでしょうか?
私たちが勉強する意味とは、本来、何かを覚えるといった単純作業ではなく、知らないことを知ることで、世界をよりよく理解したり、認識を更新したりすることにある筈です。勉強というには大げさすぎるかも知れませんが、小さな子どもが新しい言葉を覚えたときの喜びを思い出せば、勉強とは、何らかの目的に隷属した手段として位置づけられる単調な作業ではなく、楽しい発見や理解であるはずですよね。
福澤諭吉も「兎に角当時の緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者」であるとして「目的なしの勉強」こそ「却って仕合せで、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう」と指摘しています。
今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に終始我身の行く末ばかり考えているようでは、修業は出来なかろう。さればといって、ただ迂闊(うかつ)に本ばかり見ているのは最も宜しくない。宜しくないとはいいながら、また終始今もいう通り自分の身の行く末のみ考えて、如何(どう)したらば立身が出来るだろうか、如何したらば金が手に這入(はい)るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強するということでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。
(出典)福沢諭吉、前掲書、94頁。
知ることは、驚きであり、その驚き自体が、勉強することが「楽しい」経験にさせている
筆者は今年の4月から、錆びかかった英語とドイツ語を鍛えなおそうと立志し、NHKのラジオ語学講座ですが、勉強をはじめました。勿論、それが日常生活で縦横に使いこなせるスキルとなれば、自分の仕事の幅が膨らむなあというぼんやりとした考えではじめました。しかし、現職でTOEICのスコアやドイツ語検定が求められているわけでもありませんので、特定の目的に対する手段として始めたわけではありません。
就寝を忘れるほど集中してやっているわけではありません。しかし、三日坊主で終わるかなと思いきや2ヶ月も続き、ある程度楽しく感じている経験を振り返るならば、福澤諭吉が指摘する通り「目的なしの勉強」だから楽しいのかも知れません。
例えば、「入門ビジネス英語」で出合ったフレーズの一つが Word-of-mouth marketing というものです。要するに「口コミでの宣伝」というものですが、ああ、こういうふうに表現するのだなあと改めて知ると、それは「楽しい」ものです。
あるいは、「まいにちドイツ語」で抜粋されていた「ワイマール共和国憲法」の冒頭の一節が次のフレーズです。
Das Deutsche Volk, eing in seinen Stämmen und von dem Willen beseelt,sein Reich in Freiheit und Gerechtigkeit zu erneuern und zu festigen,…
ドイツ国民は、その諸部族の一致のもと、ドイツ国を自由と正義において刷新し、かつ確固たるものにし、…
Stämmen とは、部族や氏族を意味するStamm複数形です。古来、ゲルマン民族は部族社会であったとか、領邦国家として国民国家を形成することが遅くなったとか世界史で習いましたが、ドイツには部族、領邦意識が20世紀になってもあるのだなあと知ることは、驚きであり、その驚き自体が、勉強することが「楽しい」経験にさせているように思います。それが勉強が継続できている秘訣であると理解しています。
よい学校に入ることが悪いわけではありません。よい会社に就職することが悪いわけではありません。しかし、そうした齷齪(あくせく)したり、窮屈な隷属に勉強が支配される限り、勉強は楽しいものとはなりにくいのは、どうやら事実のようです。
ここに、勉強が楽しい経験になるのか、あるいは、苦しい経験になるのかの分岐点があるように筆者は考えます。
なお、『福翁自伝』は青空文庫で読むことが出来ます。