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出来事の一回性のうちに入り込みそのなかで思考しつづけること
時間がないことを理由に研鑽できないのは、言い訳以下の自己怠慢にほかならないわけなので、時間をこじ開けてでも研鑽を再開しなければとの思いで新年度をスタートしています。
いま、紐解いているのはフーコー研究の大家・重田園江先生の『真理の語り手 アーレントとウクライナ戦争』(白水社、2022年)。
帯には、次のようにあります。
「ポスト・トゥルース」、そして全体主義の時代の基底へ
とありますが、考えなければならないのは、帯にあるもうひとつの言葉、すなわち、
ねじ曲げられる「事実」、心地よい「虚偽」……
「ポスト・トゥルース」や「全体主義」といったキーワードを耳にすると、はるか遠い世界の、わたしたちの日常生活とは無縁の程遠い対岸の火事のように聞こえますが、果たしてどうでしょうか?
「ねじ曲げられる事実」や「心地よい虚偽」といった言葉に注目すると、あながち対岸の火事ではなく、わたしたちの日常生活の「火宅」であることの原因はほとんどそこに起因していると言っても過言ではありません。
重田先生曰く
アーレントの出発点にあるのは、有限な存在としての人間、それでもなお、物語を紡ぎ自らを何者かとして示すことができるような、同胞たちの間でことばを用いて自己を表現する存在としての人間であった。人間の有限性とは、私たちが歴史的な一回性のうちに生きることを意味する。私たちがある時代、ある場所に囚われ、そこからしか思考するができない以上、出来事はその一回限りの固有性のうちに捉えられるべきなのだ。
ただし、あらゆる人間が有限性へと閉じ込められているという共通の条件はまた、別の帰結を生む。それは、出来事の一回性のうちに入り込みそのなかで思考しつづけることによって、逆説的にも、人間にとっての「普遍」につながる回路を見出す道がひらけるということだ。
「ねじ曲げられる事実」や「心地よい虚偽」という重力は「有限な存在としての人間」にとっては必然的に招来される陥穽だとしても、そこで無力になるのではなく、「出来事の一回性のうちに入り込みそのなかで思考しつづける」ことができれば、重力から自由になれるもの必然とすれば、その道を選びたいものです。
哲学者の御高説のように聞こえ、わたしたちの日常生活からは程遠いように聞こえるかもしれませんが、「そのなかで思考しつづける」ほか手はありません。
そのことで火宅を超脱できるのだとすれば、その道を選びたいものです。町政に係る議論もた同じだと考えています。
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