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一日一頁:柄谷行人「心理を超えたものの影」、『畏怖する人間』講談社文芸文庫、1990年。
柄谷行人最初期の評論集を読んでいる。文芸批評、あるいは骨太の批判というものが、かつては実在していたことがよくわかる。いまこの国にあるのは、垂れ流しの感想文だらけだ。
時間がなくても1日1頁でも読みないことには進まない。
人間はもともと孤立して、自由に食べそして考える「個人」であればいいのだ、と吉本隆明は書いている。自立とはたんに孤独であることだ。それは個人主義とは無関係である。吉本隆明のいう「個人」は、市民主義者が国家(社会)原理に対してたてる個人原理とは無縁である。そのような個人原理は社会の共同性と相補的なものにすぎないからだ。
吉本隆明が「自立」(自由ではない)の根拠にすえているのは、個人原理ではなく「自然」である。そして、この「自然」によってしか、人間の社会(幻想)的存在を転倒する原理はありえない。
しかし、この自然状態がひとびとの眼をそむけさせるのは、そこにむきだしの残忍な闘争があるからではなく、耐えがたいような孤独があるからだ。この孤独に耐えられないために、ひとびとは共同体的ユートピアの夢に、したがって再び「社会」の原理へと回帰する。吉本隆明のいう「自立」を、克服すべき個人主義(近代主義)としてしたり気に批判する「社会」主義者が跡を絶たないのはそのためである。共同体、中世社会、あるいは未開社会、それらはいずれも「社会」であり、「近代社会」と本質的にはかわらないのである。孤独を回避し社会に重荷をあずけようとするもろもろの志向を拒絶するところに、吉本隆明の「自立」論がある。
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