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一日一頁:鶴見和之『フランクフルト学派 ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』中公新書、2014年。
再び読み終えた。
「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」とは被害者だけでなく、加害者側からの自己批判の意義がある。決して他人事の話ではない。
時間がなくても1日1頁でも読みないことには進まない。
そして、日本の私たちもまた、第二次世界大戦において日本がドイツの同盟国だったといった次元とはまた別に、ヨーロッパ的な文明・文化を受容しようとしてきたかぎりはホロコーストの加害者という位置にあることを、十分考えておく必要があります。広島、長崎への原爆投下という問題にしても、日本がアジアに対する徹底した加害者であったという事実にくわえて、そのような文明・文化の帰結という次元を抜きにはできません。早い話が、ヨーロッパへ留学した日本の科学者があの時点で原爆技術を日本でさきに開発しているようなことがあれば、万能の最終兵器としてアジアにおいても、「鬼畜米英」に対しても、使いまくっていたに違いありません。そういう道具的理性の発露を抑制できるだけの「倫理」を当時の大日本帝国が保持していたとはとうてい思えません。広島、長崎の被害者の声がとくにアメリカ合衆国に届きにくいという背景には、そういう問題もあるように思えます。ここにもフランクフルト学派の視点が活かされるべき問題が潜んでいるのではないでしょうか。
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