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欲しいのは、言葉だった。
私は母を捨てた
子どもの頃から、否定とか禁止とか、人を傷つけるような言葉の中にいた。
言葉というのは、私を傷つけるツールだとしか感じられなった。
「側」だけ見れば、ごくごくフツーの家族。もしかしたらとても理想的な。
外側から見たときに問題点など何も見えなかっただろうと思う。
でも内側にいる人間には、とても居心地のいいなんて言えない不健全家族。
歳を重ねても、私は言葉に飢えている。
私を温かく包んでくれる何かを渇望している。私を丸ごと認めてくれる言葉を渇望している。
でも、それって自分で与えられるものだと気付いてから、私は生きるのがラクになった。
両親から与えられたいと願った言葉は、全く与えてはもらえなかった。
望まない言葉ばかりを与えたれた。
だから、自分がどんな言葉を欲しているのかよくわかるようになった。
そんな言葉は、自分で与えればいい。
うんざりするほどたくさん浴びせればいい。
遠慮なんてしなくていい。
自分の欲しがっている言葉を、たっぷりと自分に注げばいい。
誰も与えてくれなくても、言葉は自分で与えることができる。
誰かが与えてくれた言葉ではなく、自分で与えた言葉に自分は納得し満足する。
長い時間がかかったけど、それを知ることができた。
相変わらず、両親から私の望む言葉が与えられることはない。
でも、私は自分で自分に言葉を与えることができる。
自分が言葉を欲しがっているときに、すかさず与えることができる。
望んでも与えてくれない人たちからの言葉を待つより、自分で自分に言葉を与えるほうが早い。
エネルギーのロスもない。確実に届く。
だいじょうぶ。私は私に与える言葉をたくさん持っている。
言葉が尽きることはない。私の言葉タンクはいつでも満タン。
何も心配しなくていい。
溢れるほどたくさんの言葉を私に与えよう。
溢れるほどたくさんの言葉に埋もれて生きよう。