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舟を積む

ツイッターでの自分の過去のツイートを振り返ると、どうやらこの小説を読んだのがちょうど10年前だったようです。文庫本化される前ですね。

そう、この本。アンカラに着任するときに、本を持っていかなければということで、段ボール箱を数箱日本から職場の住所宛てに立て続けに送ったものでしたが、そのうちの一冊にこの小説が間違いなく入っていたと思います(その後、アンカラに残してきたはず)。

テーマはよく知られているように「辞書の編纂」です。その後映画化もされていますよね。映画のほうは見たかどうかはあまりよく覚えていないのですが。

ここでの「舟」は、辞書のメタファーとして用いられている語ですが、舟の尊さというものを改めて感じさせてくれる小説でした。未読の方にはオススメです。推せます。「おし」ます。舟だけに。

そうです、辞書は尊い。

日本語の辞書はもちろんのこと、対象言語がほかのものであったとしても等しく尊いなと思います。そらね、課金に精が出るのもいたしかたのないことです。「人は語学書と辞書、それに『星の王子さま』の諸言語翻訳版を前にしてしまえばただ黙って金を出すしかないのである」と、かのカール・レーフラー(すっかりこの名前も死語になった感あるけど)も言ったとされています(参照:課金 重太 (2023)『言語ガチ勢死すべし』;民明書房、p101-110)

ここ2週間ほど本業の仕事のほうがたてこんだせいもあって、非テュルク系言語の勉強がやや滞っているのですが、辞書はいつでも使えるように机のすぐそばに置いてあります。やはりここ最近のお気に入りはエスペラント-日本語、日本語-エスペラント両辞書でしょうか。この2冊があるおかげで、自分の知っている文型に限っても書ける文の内容が飛躍的に増えました。

舟の力、おそるべし。

ちなみに、エスペラントでは「舟」はŝipoだそうで(調べた)、「積む」はŝarĝi(辞書形)ですか(調べた)。オンラインの辞書もあるのでこういった対応語にアクセスするのはもちろん紙の辞書でなくてもよいわけですが、紙には紙のよさというものがやはりあるように思います。

いろいろな方がいろいろな言語の辞書の「紙 or 電子」の優劣(というよりは、それぞれの利点と欠点)についてこれまで多数述べているとは思うのですが、紙の辞書はやはり当該ページにある別の語に目が行く楽しさというものもありますしね。

それぞれによし、なはずで、理想は結局、どちらも持っておくということであろうと思います。自分の「メシのタネ」であるトルコ語などは、もちろん紙も電子も両方押さえようとしていますしね。

そんなわけで、無節操と笑われようが、どうせ途中でやめるでしょと見切られようが、そんなことはどうでもよいのです。
他人の目を気にしていて、語学スケベ道が究められましょうか(いや究められない)!

先日も「本の雑誌」で、「高々と本を積み上げよう」とかの中野善夫さんが書いておられたという話に触れましたように、辞書もまた本の一種ですから、いろんな言語の辞書が机の横に積みあがっていても、なんら罪悪感を感じる必要はない…はず…

いやまあ、課金の限度額というものがあるので(日本に帰ってからも私の稼ぎはさほど多くないことで知られています)、予算をオーバーしたときの罪悪感的なものなら、そらもうようけ持ってますねんけどね…

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