内田紅甘

俳優業と文筆業をしています。 仕事のお問い合わせはメールにてお願いします。guamauchida@gmail.com

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『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』をラブストーリーとして観た感想

 先日『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』を観て、すごくよかったから会う人たちみんなに「ジョーカー2みた?!」とテンション高めで問いかけていたのだけれど、みんなして苦虫を噛んだような顔で首をすくめ「いや〜、だってあれ…(酷いんでしょ)」といった反応なので悲しくなってきてしまい、「私がおかしいのかな…」と疑心暗鬼に陥った。どのくらい陥ったかというと、確かめるためにもう一度観に行ったくらい。そしたらやっぱりよかったので、悲しみを通り越してもはや怒っている。ぷん。  といっても私は初

    • 語りたがりの大人たち

       ブックカバーを買った。もともと本にカバーはつけない主義で、せっかくの装丁を隠すのがもったいないし、みんなは表紙を汚したくないとか、自分がなにを読んでいるかをひとに知られたくないとかでつけているのだろうけれど、私は表紙が擦り切れるほど読んでいるということもふくめて自分の本をひとに見せつけたい(そしてひとにも見せつけられたい)という欲望があるので、断固としてカバーはつけない、本屋のレジで聞かれたときはもちろん断るし、ましてやわざわざブックカバーなるものを買うなんてありえない、と

      • 『そこにある不在』@Turn the Page

         前回に引き続き、展示のことを書いていく。今回は鎌倉長谷にあるTurn the Pageでの個展『そこにある不在』について。  flotsam booksに来てくれたひとに「鎌倉でも展示やってるんです」とチラシを渡すと、高確率で「なんでここでやることになったの?」と聞かれた。私は去年の夏に鎌倉でハイキングをした際に店の看板を見つけたこと、入ってみるとこじんまりした古本屋ながらそのラインナップの奥行きが素晴らしく、そして一見朗らかな女性店主こと東雲さんの正体が実は川端康成の研

        • 内田紅甘×髙田将伍『見つめ合わない』@flotsam books

           この夏、ふたつの展覧会を同時開催した。もともとは同時開催の予定ではなかったのだが、いろいろあってそうなって、代田橋と鎌倉を行ったり来たりする日々を過ごした。おかげさまで遠出がまったく億劫に感じなくなり、フットワークもうそみたいにかるくなって、このまま旅人になってしまいそうである。おれたちの夏はこれからだ!という心持ちでいるものの、早くも蝉の声が遠のき、もうすでに鈴虫が夜を歌っている。  さて、いまだに浮き足立ったままの心をすこし鎮めて、ふたつの展示について振り返ってみよう

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          21本

        記事

          真夜中の(もしくは明け方の)

           展示をやったこともあって、しかも自作の掌編小説を朗読したりしちゃったこともあって、ここでもなにか立派なものを書かなければとどこかで思って筆が止まっていた。筆が止まっていた、と書いて筆で文章を書いた経験など一度もないということに気がつく。実際に止まっていたのは指である。具体的には両おやゆび。  それなので原点に立ち返って、真夜中に(現在時刻は3:50とのこと)ベッドの上で、脳みそから流れ出てきたものをそのまま打っている。中高生の頃は毎夜のように泣きべそかきながらひたすらに文

          真夜中の(もしくは明け方の)

          さみしさの川

           いつのまにか夏だった。いや、まだ梅雨だしたしかに雨も降ってるし、頭痛にも悩まされているけれど、でも気温や空気はもうすっかり夏のそれだなぁ、とか書いている間に、あっさり梅雨は明けたらしい。あまりにも短い梅雨とのことで、スコールみたいな土砂降りはあっても、総合的な降水量もさほど多くはなかったと思う。ひと足早く訪れた夏に心を躍らせながら、けれど作物とか大丈夫なんだろうか、と一抹の不安がよぎる。  子どもの頃、雨がすごくいやだった。濡れるし滑るし不自由だし、体が重くなっていつにも

          さみしさの川

          ゆっくりでいいよ

           「家のそばの十字路の片側がぜんぶ土になってしまった」という文を、そっくりそのまま友人に送った。もちろん写真付きで、写ったものの説明文として。でもどちらかといえば、写真のほうが文の説明であると私は思っていた。家のそばの十字路の片側がぜんぶ土になってしまった。歩くとき、左手を見ていればなにひとつ変わらぬ風景がそこにあるのに、右手に視線を動かせば懐かしさもあたらしさも一切が取り払われ、見渡すばかりの土だけがある。夜になるとその空白に闇が立ち込めて、道すらなくなったようになる。

          ゆっくりでいいよ

          いつも胃痛

           胃が痛い。この頃の私は消化器官の調子に一喜一憂している。おなかの調子がよいか悪いかでその日がよい日か悪い日か決まる。なんにせよ、調子がよくないときに外に出ると歩きながら胃がぐるぐると回り出して、家に帰って休むまで吐き気を堪えるはめになるのだ。そしてここ最近はずっと、そのような悪い日が続いている。  しかし考えてみたら、私のからだが絶好調だったときなんかあっただろうか。絶、まで欲張らなくても、好調であったこと。うーん、ないかも。つねにどこかが痛かったりだるかったりしていると

          いつも胃痛

          蒙昧な日々

           近頃5月のせいなのか妙に気分が沈むので、外で読書をしようと思い屋外用の椅子なんぞを調べていたのだけれど、そんなものを買うより公園に行けばいいのでは、とはたと気がついた。しかし立ち上がるのも、服を着替えるのも憂鬱で、うんうんうめき声をあげながら支度をし、ようやく家を出たときにはすでに夕方の空気が立ち込めていた。  どの公園にしようか迷いつつ、けれどあらかじめ決めていたみたいに、桜並木の奥にある公園へ向かう。桜並木、といってもいまやどれが桜なのかよくわからず、ただひたすらに青

          蒙昧な日々

          江國香織を読んだ夜

           久しぶりに江國香織さんの小説を読み、堪えきれなくなってこれを書いている。私のからだの一部はこのひとの書くものでできているのだと、ひりひりと思い出してしまった。高校生のときに初めて『きらきらひかる』を読んで、「こんなにもからだに響く小説があるのか」と、私はほんとうにびっくりした。それまでは小説、のみならず物語はぜんぶ、心に響くものだと思っていたのだ。けれども江國さんの文章は私のからだにびりびり響いて、その刺激によって生まれた細胞が今も私の体内で分裂を続け、からだの一部を構築し

          江國香織を読んだ夜

          ふつうの生活

           すでに初夏の風が吹いている。日を追うごとにあかるい時間が長くなって、ついこのあいだまで寒々しく枝をひろげていた木々に気づけばあわい緑が宿り、目を凝らせばくうに浮かぶ水の玉が見えるのではないかと思うくらいに湿気ている。日中は半袖でも汗ばむくらいに暑い日もあり、けれど雨が降ると急に冷え込み鳥肌が立つ。いつもはひどいスギアレルギーが今年はほとんど出なかった(今年がひどいんだよ、とみんなに言われた)のに、今になって目が痒くなったり皮膚がかぶれたり、くしゃみが出て頭痛もありからだも怠

          ふつうの生活

          雨宿り

           雨粒が裸の枝の先っぽについて、きらきら光るつぼみになってる。春の雨が、私は好きだ。さらさらと世界をなでるように降り、音もどこかやわらかく、立ち上る土の匂いは夏の気配をもふくんでいる。春は頭がぼんやりとして、心もからだも鈍くなり、どうにもいらつく日が多いけれど、雨が降ると滞っていたものが清く洗い流される思いがする。それに、ぬくもりを帯びたあわい風景につめたい滴が降りそそぐというその現象は、ただそれだけで息を呑むほどうつくしい。  こんなふうに自分の気持ちを文字に起こしてひと

          春を迎えに

           みるみると春になっている。いつもだったら立春とか言いながらまだぜんぜん冬なんだけど、などと文句を言ってる頃なのに、今年は順調に春めいてきていて拍子抜けする。そうでなくとも暖冬だったから、思えば冬らしい日はほとんどなく、ずうっと春がくすぶっていたみたいな感じだ。たしかに雪はふったけれど、それも「最後に一発冬っぽくしておきますか」みたいなふりかたで、翌日はもうあたたかかった。しかし、冬のほうもこのままでは終われないと思ったのか、あたたかいわりに雪はあんがい長く道路のわきに解け残

          春を迎えに

          宿命の不在

           あけましておめでとうございます。  と言うのもはばかられるくらい、年明けからめでたくないニュースが続いている。まずは被災された皆さまにお見舞い申し上げるとともに、一刻もはやく被災地に日常が戻りますように、心よりお祈りいたします。  私は年始も東京にいて、身近に被害に遭ったひともいなかったけれど、それでも続報を見るたびに胸が痛んだ。こんなふうにあっけなく、私自身も、私のまわりの大切なものもいつか奪われるのかもしれない、と思うとこわくなって、すこし塞ぎ込んでしまうほどだった

          宿命の不在

          年末のご挨拶と、ウォンバットのうんち

           あっという間に今年が終わる。年々はやくなるというが、ほんとうにそのように感じる。思えばクリスマスも年越しも、子どもの頃みたいに特別なものではなくなった。自分の誕生日すらもそうだ。幼いときには毎月29日がくるたびに「あとなんヶ月」とゆびおりかぞえて、いよいよ12月になり、27、28と近づいてくればそわそわと、日付が変わる瞬間をいまかいまかと待ち侘びたものだった。そんな暇なガキだった私も、おとといぬるりと24になった。和菓子とケーキをどっちも食べたが、ろうそくを吹き消したりはせ

          年末のご挨拶と、ウォンバットのうんち

          ぬくもりをこわして

           坂の上から工事現場を見下ろして、こわれている、と思った。瓦礫のなかに埋もれるように、じっと黙ったショベルカーが虚空を見つめる。工事現場を覆う、ブルーやグレーの淡いメッシュが好きだ。こちらにものが落ちてこないよう守っているのはわかっているけれど、私にはそれが、怪我をしたときに傷を覆うガーゼや包帯みたいに、傷ついたものを包んで癒しているように見える。剥き出しになった鉄骨や、瓦礫になった壁を内包してはたはたとゆれるそれはずいぶんとやわらかそうで、だが実際ふれると硬くがさがさしてお

          ぬくもりをこわして