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内田紅甘×髙田将伍『見つめ合わない』@flotsam books
この夏、ふたつの展覧会を同時開催した。もともとは同時開催の予定ではなかったのだが、いろいろあってそうなって、代田橋と鎌倉を行ったり来たりする日々を過ごした。おかげさまで遠出がまったく億劫に感じなくなり、フットワークもうそみたいにかるくなって、このまま旅人になってしまいそうである。おれたちの夏はこれからだ!という心持ちでいるものの、早くも蝉の声が遠のき、もうすでに鈴虫が夜を歌っている。
さて、いまだに浮き足立ったままの心をすこし鎮めて、ふたつの展示について振り返ってみようと思う。実際、私にとってはふたつの物事を並行して考える日々だったのだが、しかしそれをそのまま書くと大変とっ散らかって読みにくいと思われる(実際試しに書いてみたら意味がわからなかった)ので、ひとつずつ書いていくことにする。まずはflotsam booksで髙田将伍さんとやったふたり展『見つめ合わない』について。
展示をやることになった経緯について書くと長くなるので、まずはプレスリリース用に書いた文章を引用します。
去年の5月に初個展『私からの眺め』をflotsam booksでやらせてもらって、すっかりやり切ったつもりでいたから、今年もという話が出たときは困った。でもわくわくして、"他人の関係"をテーマにするのはどうだろう、と案外すぐに考えついた。前回の展示はいわば「ひとりの風景」を作ったものだったから、そこから進歩させて「ひとりとひとりが共にいる風景」を作ってみたいと思ったのだ。そんなわけで、一度挨拶を交わしただけの関係だった髙田さんを、いきなり展示の共同制作者にお誘いした。さて、「ひとり」と「ひとり」が見つめ合わずに、それぞれの視点で切り取った風景を繋げたら、どんな眺めが生まれるのだろう。私もはやく、それを見てみたい。
というわけだったのだが、髙田さんとの出会については詳しく書いておこう。「二度目の展示やります!」と即答したもののまったく活路が見出せないまま時が過ぎていたある日、相談していた鈴木親さんから「このひと写真上手いから一緒にやったら?」という提案と共にあるインスタアカウントが送られてきた。たしかに写真がかっこよくて、縦画面で撮影された映画のワンシーンのような動画がほんとうにきれいだった。
「すごくいい!若手の写真家?」
「いや、gucciの人」
「gucciの人…?」
というやり取りを交わし、今度gucciのパーティーがあるからそこで紹介すると言ってもらった。よくわかんないまま私はgucciの人のインスタを食い入るように見て、だんだんと「この人とやるならどんなテーマがいいだろう」と考えはじめていた。そして来たるgucciのパーティーで髙田さんに会って、彼とやろうと勝手に決めた。しかし人を巻き込むからにはある程度枠組みを考えてから誘わなければ、と思ったのですぐには声をかけず、しかし結局なんにも決められなかったのでいっそ早いほうがいいと思ってDMを送ってみると、ありがたいことに即答でYESが返ってきた。
結局私と髙田さんが展示までに会ったのは、gucciのパーティーと、そのあとflotsam booksで「なにしようか」と繰り返すばかりの会議をした二回きりで、連絡は取り合っていたものの展示物についての相談はほとんどしなかった。というのも、最初はついつい足並み揃えようとしていたのだが、他人の私たちに足並みを揃えられるわけがないとある時点で気がつき、むしろ徹底して『見つめ合わない』ほうがいいと判断して相談するのをやめた。zineのデータもバラバラに送って日付順に組んでもらっただけで、当日も即興でとりあえずいったんそれぞれが壁に作品を貼り付けていき、そうして生まれた状態を完成形とした。こうやって書いてみると、よくそんなことができたものだなと思う。自分の初個展のときを思い返すと、髙田さんはさぞ不安だったことだろう。ほんとうにごめん。でもそんなふうに信頼できたのは髙田さんだったからだよ、と直接言うのは照れくさいからここに書いておく。
そんなわけで、髙田さんとやることを前提にしてテーマを考えていった結果、他人同士の関係というところに行き着いたわけだけれど、しかしそれは普段からよく考えているテーマでもあった。たとえば、街を歩いていて隣のしらないひとがふいに「おー!久しぶり!」とか言って知り合いを見つける瞬間なんかに、「なんで彼らはお互いを知っていて、それなのに私は彼らのことを知らないんだろう」と、あたりまえの疑問を抱いていた。他人同士の私たちは目があっても笑いかけるどころか、やましいことがあるみたいにすぐに目を逸らす。電車で隣に座ったら、なるべく触れ合わないように気を使う。でもそれは"関係しない"という形のコミュニュケーションであると、日頃から私は感じていた。私たちは他人だけれど、しかしそこには"他人同士"という関係がある。それを浮き彫りにするにはどうしたらいいのだろう、と考えて、ほとんど他人同士だった私と髙田さんのカメラロールの中身を取り出して混ぜ合わせてみたのだった。そうすれば、互いに違った風景を眺めながら同じ空間にいる状態を表現できる、と思って。
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思えば、それは「ごく個人的な視点に共感する人の心を見つけることで、私たちが同じ世界に生きていることを示す」という前回の個展の目的を、別のアプローチから試みる行為だった。(前回の個展についてはこちらのnoteにまとめているので、詳しく知りたい方はぜひ読んでみてね!)
展示を見に来てくれたひとは、どれがどっちの写真かまったくわからないという人がほとんどだったけれど、ズバリ当てる人もわずかながらいた。おもしろかったのは、どっちがどっちの写真か見分けようとしているときはみんな写真同士の違いを見つけようとするのに、ネタバラシをしたあとは写真同士の共通点を見つけようとするところ。そうやって区別したり混ざり合ったりを繰り返す動きに、私は人と人との関わり合いそのものを眺める思いがした。
私が今回の展示を通してあらたに感じたのは、ひとは友人や恋人や他人という固有の関係を持っているのではなく、それらは混在して同時にそこにあるのではないかということ。考えてみれば初めはだれもが他人だったわけで、それが友人になったり、恋人になったり、家族になったりしていく。十代のときの友人とは大人になってもつい十代の頃のつもりで接してしまうのと同じように、実はどの関係の中にも他人だったときの余韻は残っているのではないだろうか。だからときおり私たちは、目の前の親しいひとがひどく遠い存在に思えたりするのではないか。
そしてそれと同時に、世界に無数にはびこる"他人の関係"の中にもまた、まだ見ぬ友人や恋人や家族の関係が漂っているような、そんな気が私はする。私とあなたは、今日も見つめ合わない他人の関係を生きる。しかし、そこには見つめ合う親密な関係が、きっとおんなじ濃度で存在している。ふいに目があって相手のすべてがわかって、互いに手を取り夕陽へ向かって走り出すようなあり得なさが、そこにはいつでもふくまれている。夢みがちだと言われるだろうけれど、でもそう思ったほうが楽しいでしょう?私は今日もだれかのまだ見ぬ友人や、恋人や、家族として、ここにいるって。
2024.8.25