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語りたがりの大人たち

 ブックカバーを買った。もともと本にカバーはつけない主義で、せっかくの装丁を隠すのがもったいないし、みんなは表紙を汚したくないとか、自分がなにを読んでいるかをひとに知られたくないとかでつけているのだろうけれど、私は表紙が擦り切れるほど読んでいるということもふくめて自分の本をひとに見せつけたい(そしてひとにも見せつけられたい)という欲望があるので、断固としてカバーはつけない、本屋のレジで聞かれたときはもちろん断るし、ましてやわざわざブックカバーなるものを買うなんてありえない、と思っていた。

 それなのに先日、行きつけの文房具屋で売られていたブックカバーの見本を、何気なく手に取ったら、その手触りに惚れてしまった。こんなにやわらかいのに本なんだ、というへんなおどろき方をした。素材はPVC、つまりプラスチックで出来た合皮で、だから上等な品というわけではまったくないのに、いや、むしろそのどことない安っぽさがかえって手に馴染みきらず、この少し浮いたふうなふんわりした触感を生み出しているようだった。これを触るために本を読みたい、と思ってしまった。やられた、と奥歯を噛み締めながらレジへ。さっそく読みかけの文庫本に着させた。

 色は、ピンクとグレージュとアクアブルーもあったけれど、黒にした。表紙側にはなぞの外国語が刻まれており、調べたらドイツ語だった。「昨日も今日も」という意味らしい。よくわからない。でもやっぱり、さわり心地はものすごくいい。ふかふかしていてなめらかで、でもすこし引っ掛かる感じがあって、読みやすい。黒にしたのも正解だった。その深い影によって、物語の光がよりいっそう強く感じられる。そう、物語は光だ。それは時の流れを綴るものだし、たとえば映画なんてまさに、疑いようもなく光そのものだ。物語を前にしたとき、私たちは影のなかに身を落として、その瞬きをじっと見つめる。息をひそめて。

 大人の昔話を聞くときにも、私は同じような思いがする。とくに、私がまだ生まれる前の話や、私が会ったこともなければこれから先も会えない人の話を聞くときには、そういう届かない光を見つめるような、遠い気持ちになる。私は故人の話を聞くのが好きだ。というか、故人のことを私に教えてくれるひとの、その愛しそうな表情を見るのが好きだ。子どものときは退屈だったが、次第に昔話の聞き手という役割を楽しめるようになった。昔話をするときにはたぶん、当時をしらない人間が必要なのだと思う。もちろん当事者たちだけでも盛り上がるだろうが、でもそれはお互い知っていることだから、わざわざ話さなくても「ああ、懐かしいね」と言うだけで済んでしまう。そういう、言葉に起こさなくても通じ合える幸福もあるけれど、でもひとはやっぱり物語を語りたいのだ。こういうことがあったんだって、いちからぜんぶ話したい。

 だから、年上のひとに対して私は語られることしかできない。それが若者の仕事といえばそうで、それこそが世代を隔てた健全なコミュニュケーションなのかもしれない。そもそも、彼らに対して私が語ることのできる歴史は存在しないのだし、わかってほしいと思ったところでわかってもらえるだけの根拠すらない。大人はわかってくれないなんて言うけれど、わかってほしがり屋なのは大人のほうだ。彼らは歴史を持ってしまっているから。自分が何者なのかわかっていないような若者とちがって、その歴史こそが自分だと、知ってしまっているのだから。

 そして昔話をするひとの、その目は今でなく当時を見ている。目の前の私ではなく、数十年前のそのときを見ている。私はそれを感じ取って、見たこともなく、決して見ることのできないそれをともに眺めようとする。同じ光の中に身を置こうとする。それはどうがんばっても叶わないということが、ときおりひどく寂しくもあるが、しかし報われない努力もまたおもしろい。ここ数十年のテクノロジーの進歩はめまぐるしく、数十年前の話でも数百年前のことみたいに聞こえる。iPhoneもなければGoogleもないし、いわゆるZ世代の私には想像し難い世界で、まさかそんな時代を生きてきたひとと同じ場所で向き合っているなんて、なにかの冗談という気もしてくる。なにかの冗談みたいに、まるでちがう歴史を持つ私たちが今ここにいる。

 本をひらくときもそう。まるで異なる時間の中を生きてきた私たちが今、どうしてなのか見つめあっている。物語を介すときだけは、同じ時間の中を生きることができるのだ。映画も、絵も、写真もそうやって、出会うはずのなかった時と時をつなげる。最近、本も映画もなにもかもすでに溢れかえっていて、もうこれ以上いらないとうんざりした気持ちになってしまうこともあるけれど、でもそれはとめられないのだ。なぜって見つめ合うことだから。人間が群れの動物である限り、それはやめられない。だれかと通じ合うことを、私たちは求めずにはいられない。

 電車内で読書はぐんと進む。次々と過ぎ去っていく風景が、ちょうど本の中の時間の流れに合うからだろうか。窓の向こうは早送りなのに、ノイズキャンセリングイヤホンがあらゆる音を重たく変質させるから、音だけがスローモーションになって届く。会話はコトコトと鍋を煮込むような音として響き、電車のガタンと揺れる音もこもっていてあたたかい生き物の咳みたい。どこか守られている心地で、ふかふかした手触りの物語に身を委ねていると、あっという間に最寄り駅に着く。気づけば暗くなっていた外は、すこし湿っていて肌寒い。やっぱりジャケットを持ってくるべきだった、と思いながら、私より着込んだ本をバッグにしまう。きっとすぐにコートを纏う季節が来る。

2024.10.23

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