ふつうの生活
すでに初夏の風が吹いている。日を追うごとにあかるい時間が長くなって、ついこのあいだまで寒々しく枝をひろげていた木々に気づけばあわい緑が宿り、目を凝らせばくうに浮かぶ水の玉が見えるのではないかと思うくらいに湿気ている。日中は半袖でも汗ばむくらいに暑い日もあり、けれど雨が降ると急に冷え込み鳥肌が立つ。いつもはひどいスギアレルギーが今年はほとんど出なかった(今年がひどいんだよ、とみんなに言われた)のに、今になって目が痒くなったり皮膚がかぶれたり、くしゃみが出て頭痛もありからだも怠いので、ヒノキアレルギーに転身したのかもしれない。せっかく花粉症が治ったと浮かれていたのに、ぬか喜びをした気分である。
「別人ね」と言われるくらいに髪を短く切ったから、ひとに会ったり街に出たりして見せびらかしたいのに、そんな具合なので結局家に引きこもっている。そして考えてみれば、連絡を取って会いたいような友だちもほとんどいないのだった。仕方なく、買い溜めるばかりで読む暇のなかった本たちに取り組みながら、短くなった頭をしょっちゅうくしゃくしゃ触り、バレンタインのときに買った資生堂パーラーのノワ ド ペカン オ カラメルショコラを大事につまんだりして楽しんでいる。資生堂パーラーのスイーツはすべて好きだが、このショコラとビスケットがとくに大好き。特別な気持ちで食べたいから、1度に2粒ずつくらいしか食べないで、そして食べ終わったらふたたびリボンをくくっておき、またここぞというときにリボンをほどいて食べている。
ぬか喜び、という言葉をさっき使って思い出したが、私はそれを「モクレンのよろこび」と呼んでいたことがあった。由来は、『ぼくの地球を守って』という80年代の少女漫画で、モクレンというのは主人公の前世である人物だ。モクレンは特別な力を持っており、楽園と呼ばれる施設の中のみで暮らしているのだが、あるとき窓の向こうで目があった少年に外へ連れ出され、初めてのデートをしてプロポーズまでされ、モクレンは人生のゴールテープを切ったかのごとくしぬほど浮かれる。あまりにも世間知らずの、そしてだからこそ恋愛にとてつもなく憧れている彼女の、残酷なほどのぬか喜び。けれどもそれは、ぬか喜びだったと知るまでは、本物のよろこびなのである。私は、自分が浮かれているとわかりながらも、そしてそれがやがてしぼんでいくものだとどこかで知っていながらも、それでもどうしてもうれしいときに「これはモクレンのよろこびだ」と思うようにしていた。そうすると、あとで「ほうら、やっぱりね」と落ち込むことになったとしても、よろこんでいたときの自分を恥じずに済むどころか、むしろ愛らしく思えるのだ。
それにしても、私の読書の仕方はめちゃくちゃだ、と久しぶりに本を読むだけの生活をしていて思う。私はだまって1冊に集中するということができなくて、いつもなん冊も並行して読む。今は江國香織さんの『落下する夕方』と、リルケの『マルテの手記』、川上弘美さん訳の『伊勢物語』と、志賀直哉の『暗夜行路』に、『星の王子さま』の英語版。それから『セーラームーン』の完全版と、もう2年くらい読んでいる『実在とは何か』という量子力学の歴史の本と、それから『ロミオとジューリエット』。ほかにも読みかけの本はたくさんあるが、今はだいたいこれらをかわるがわる読んでいる。しかも傍にスマホを置いて、読む手を止めてこうやって書いたりもしている。頭がこんがらがらないのか、と我ながら思うけれども不思議とならない。むしろそのほうが集中できる、というか、集中した結果がこれなのである。
そんなわけで、1冊を読み切るのにえらく時間がかかるが、読み終わるときは一気にいくつも片付いたりする。子どものときから本の虫というわけではまるでなく、むしろ私は最近まで、読書なんて退屈できらいだった。だから、まるで本さえあればいいというふうな今の自分の有り様にはかなりおどろいている。鬼ごっこの誘いを断って教室で本を読む子を訝しんでいた、小学生の頃の私はどこへ行ったのか。今でも楽しい誘いがあればもちろん参加するけれど、でもその楽しさを読書と天秤にかけるようになった。そこに行くのと、ひとりで本を読むの、どちらがいいかなと考えるのだ。そして天秤はほとんど毎回読書のほうに傾くが、しかしたまにはひとに会っておくか、と付き合いで出向くことが多い。そしてへなへなに疲れて帰宅して、またしばらくこもりきりになって生気を養う。
以前、ドラァグクイーンのドリアン・ロロブリジーダがjudge meというYouTubeの番組で、「やっぱり嫌だということを確かめるために苦手なところへ出向く」という話をしており、えらく共感した。「ああ、いやだなぁ、行きたくない」と思いながら集まりに参加し、「やっぱり嫌!合わない!」と思い知ることをときおりやると話していて笑った。私はそこまで自覚的ではなかったが、自分はむしろ孤独感を強めるためにひとの集まりに加わるのではないか、とつねづね思っていた。それはたしかにストレスなのだけれど、でも不愉快なばかりではなく、「私は私のままで生きるしかないのだ」という決意を半ば強制させられ、いっそあきらめに近い自信が湧いてきたりする。寂しさを埋めるためでなく、かえって強めてしまって、活力に昇華してしまうのである。いつそれを覚えたのかわからないし、意図的にそうしているというより合う場所があんまりないから開き直りの荒技を身につけただけだろうが、なんにせよ、私はストレスやいらつきや寂しさが、さほどきらいではないのだと思う。それを感じることすら楽しんでしまえるところがきっとあるのだ。ぬか喜びさえも。
朝に起きて、ときどきは昼まで寝こけて、食事が済んだらすぐに本を読む。集中できなくなったら散歩に行くか、べつの本を手にとって読む。こうやって文章を書いたりもする。ときにはギターをかき鳴らしてみる。猫を撫で、夜は一緒に眠る。たまには映画館に行って、暗闇の中でこっそりおにぎりを食べ、感想をだれとも分かち合わないままにしておく。考えごとの最中に頭をわしゃわしゃ混ぜたり、鏡の中の別人のような自分を眺めたり、洗濯物を干しながら髪と髪の隙間を湿った風が抜けていくのを感じる。そういったことが、この頃は楽しい。
2024.4.22