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江國香織を読んだ夜

 久しぶりに江國香織さんの小説を読み、堪えきれなくなってこれを書いている。私のからだの一部はこのひとの書くものでできているのだと、ひりひりと思い出してしまった。高校生のときに初めて『きらきらひかる』を読んで、「こんなにもからだに響く小説があるのか」と、私はほんとうにびっくりした。それまでは小説、のみならず物語はぜんぶ、心に響くものだと思っていたのだ。けれども江國さんの文章は私のからだにびりびり響いて、その刺激によって生まれた細胞が今も私の体内で分裂を続け、からだの一部を構築している。もともと欠けていた部分を補うようにして。

 けれども、江國さんの小説を読むことは、なにかを得るというよりむしろ喪失体験に近い。昨日『落下する夕方』を読み終え、江國香織ファンの中でも特に好きな小説として名前をあげられることが多いそのわけが心底わかったが、そんなふうに熱いくらいの満足感を得ながらも、私はもうこの物語を知る前の私に戻ることはできないということが、とてつもなく痛くてくるしい。ふいに、「君の死を知らせるメールそれを見る前の自分が思い出せない」という俵万智さんの短歌が頭を過ぎった。やっぱり私は『落下する夕方』を読み、なにかを失ったのだ。あるいは、からっぽなかなしみを胸の真ん中に押し込まれた。そうしてその空間は、まちがいなくこの世でいちばん安全な場所なのだった。私はその中で眠り、その中で安心して涙を流して、10代を過ごしてきた。

 このかなしい物語を読みながら、私はうそみたいにほっとしていた。久々に感じる安らぎだった。お風呂上がりにうるさく髪を乾かしながら鏡の中の自分を見つめて、どうして私はこんなにほっとしているのだろう、と自問してみる。まるで、心がここにないみたいにすっきりしていた。私はそれを、自分の心を、小説の中に置いてきたのだとわかった。心の中に物語を大事に大事にしまい込んで、お守りみたいに持ち歩くのではなくて、心のほうを本の中に、置いてきてしまえた。なるほどそれは、ホームということなのかもしれなかった。帰る場所。心はいつでもあのあたたかなさみしさに包まれたまま本の中にあって、だから私は単純な肉体として、ほんとうにあっさりどこへでも行けてしまう。心の代わりにからだの底までぜんぶからっぽなかなしみが満たして、泡にでもなったみたいに身軽に。

 そうして目にうつるなにもかもがその空洞の中で反響し、からからと清らかな音を鳴らす。その振動があまりにも心地よいので、ただ暮らしているだけで疲れがとれる。江國さんの小説に出てくるひとはみんなとても冷静で、そしてあまりにも真剣だ。だれひとりとして生きることの情けなさをからかうことをせず、それでいて悲劇ぶって泣き喚いたり病んでみたりするわけでもなく、ただ生きてゆくことの重みに骨をきしきしと軋ませながら立っている。踏ん張るわけでも、なにも感じないようにするわけでもなく、かなしみもいら立ちも虚しさもすべて、重力とおんなじように受け止めて立っている。それが好きだ、どうしようもなく。

 まえに、同じように江國香織を読んで高校時代を過ごしたという知人から、「江國さんの小説って、このよさは私にしかわからないと思わせる力があるじゃないですか」と言われたことがあった。そうなんだ、とそのときは他人事のように思っていたけれど、しかしその言葉が妙に尾を引いてずっと心にからんでいたのは、やっぱりそれが言い得て妙だったからだろう。そして今日ふいに、彼女の言葉に納得した。「このよさは私にしかわからない」なんて、そんな気持ちは恋愛のそれだ、と気づいたからだった。そうしてむしろ、それは江國さんの小説そのものだという気がした。私たちは、江國さんが「このよさは私にしかわからない」と思って書いたものを読んで、ただその気持ちを受け取っているだけなのではないか、と。私はこのひとの書くものを愛している。こんなふうにラブレターをしたためながら、私は江國さんの小説を読んだときの心をあらわすために今まで言葉をあつめてきたのかもしれない、とすら思った。ものを書けるようになって、よかった。

2024.4.23

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