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#160 ダンスはnote。踊りながら書く。文学的で音楽的。だってnoteは音でしょ?
前回の続きです。
会話→こだわり→勉強→哲学→書くこと…
結論ですが、この本、マジ最高だった!
ここ数年読んだ本の中でもリアルに一番意味わかんなかった。なのに面白くて、破壊的な何かが心の中で弾けた。ホンマに。
例えるなら、下手くそなりにも一生懸命に楽器を練習して初めて「あれ、今の自分の音、結構イイ音色だったかも」ってハッ⁉︎として、気づいたときにゃあもう夜だったときの、あの高揚感。
とにかく勉強したくなるし、なにより書くことが、そしてnoteがもっと楽しくなった。
ここから先は、読んでいく上で、シビれた文章だけを抜粋していく。あとで何度も見返すために。
こだわりはダンスで文学的な境地
自分がもっていた無意味なこだわりとは?
そのこだわりをもつ意味とは何だったのか?
周りに関係なく、「自分でノっている」だけ、脱共同的で自己目的的な享楽のノリ、こだわりのノリは、最悪にして究極のノリである。これこそが、ノリである。ダンス的なノリ。
そしてこれは文学的な境地であり、もはや勉強の範囲内とは思えないかもしれませんが、その境地こそが「勉強のリミット」なのです。
/著:千葉雅也
ようするに、ダンスダンスレボリューションです。アラフォー、アラフィフなら一度は聴いたことあるでしょう。このせいで勉強どころじゃなかった。踊るしかなかった。舞うしかなかった。よく行くゲオには、ナウシカなかった。
⭐️ぜひ聴き流しながら、下へお進みください。
どんどん脳が刺激されて、何も頭に入らなくなっていきます。それを楽しみましょう。
流行りのテーマを勉強すればキャリアアップできると思っている自分に、残酷なまでに自己ツッコミを入れてみる。自分のがんばりは、たんに踊らされているだけじゃないのか……。それは、根本的に、「そもそもがんばって働かなきゃいけないもんなのか?」という深い疑問につながるでしょう。
働くって何だ?
踊るって何だ?
back numberが「踊らされてるのも随分前から分かっていてそれでもそれでも〜」と歌っていた。おそらくはメンバーの中に哲学者、あるいは天才的なnoterが紛れ込んでいてもおかしくはない。
大きな構造的問題を考える、それは、自分がなぜこういう生き方にさせられているのかの根拠を「追究」するということです。
どうして僕は踊るのか。
なぜnoteを書くのか。
疑問が疑問を呼び、頭の中がグルグルしてきた。
そもそも何を考えていたんだっけ?
さあ、きりがなくなってきました。勉強はこのように、追究・連想をしていくと、どんどんきりがなくなっていく。
そうだ。
どんどん際限なく広がっていく。
どこでやめるべきなんだ?
僕が言いたいことはシンプルです──「最後の勉強」をやろうとしてはいけない。「絶対的な根拠」を求めるな、ということです。それは、究極の自分探しとしての勉強はするな、と言い換えてもいい。自分を真の姿にしてくれるベストな勉強など、ない。
アイヤイヤーー!
勉強しても、真の姿にはなれないんだ!
勉強によってノリが悪くなる、キモくなる、小賢しくなる。勉強する以上、それは避けられない。それが嫌であれば、勉強を深めることはできない。
ノリ悪くなってもいい。
キモくなったっていい。
勉強するよ、明日から。
さぁ、やり方を授けておくれ。
「まとも」な本を読むことが勉強の基本である。
めちゃめちゃまともやん。王道やん。
勉強をイヤにならずに続けるには、「完璧主義」を避ける必要がある。いつでも不完全な学びから、別様に不完全な学びへと移っていく。仮固定から仮固定へ。
実は、恋愛の話だったり?
友達以上恋人未満を行ったり来たり?keep?
僕は、三日坊主的にあれこれ勉強するなかで、分野の垣根を超えたつながりが見えてくるのが勉強の醍醐味だと考えています。
つながりがピピーン‼︎
シナプスとシナプスが、ガッチャーン‼︎
たしかに醍醐味かも。勉強というかいろいろ調べていったおかげで、初めて興味がわいたものが見つかれば、それこそ最高ですな。
勉強を進めるうちに、友が必要になってくるでしょう。友は、教師よりも必要な存在です。
ノリの悪い友と、キモい友と、語りたくなる。
それこそがまさにノリであるノリ、自己目的的なノリを楽しんでいる、来たるべきバカ同士の、互いの奥底の無意味を響かせ合うような勉強の語り合いへ。
これはまさに、noteにおける友。noterよ。
フォロワーさんであり、コメントをくれる読者さんである。コメント欄で議論したり、記事を引用し合って、考察する。そして響かせ合う。
もう、これはnoteってことですよね?
いや、もはやtoneでしょ。音です。音楽です。
書く技術は、「書くことで考える」習慣によって向上するだろう。
これ、書く習慣のことですか?
もう、いしかわゆきさんのファンでしょ。
この著者、絶対noteやってるって。
がんばって自己表現しようとしない。起きたことをただ書くのですが、「ただ書く」というのは実は不可能で、要素の取捨選択が無意識に働くし、書き方のリズムには身体的なクセが出ます。そういうひじょうに身体に近いところで生じるクセが、文章の本質的なオリジナリティだと思います。文章に対するこういう身体的なアプローチは、さらに言えば、ダンスという芸術につながっていくかもしれません。
僕と一緒に踊りませんか?
これが、自分の文章であり、自分のnoteにつながっていく。まさに音楽のそれと同じであり、音色であり、ダンスである。創作は、コンテンポラリーダンスなんだ。削ぎ落としてもなお、バレてしまうのが個性。その個性は偶然の産物。強烈な出会いによるもの。考える前に、身体で反応してしまうもの。学びたい。書きたい。踊りたい。飲みたい。食べたい。旅したい。
アイヤイヤーーイ…
いろんなものが溶けていく…
こたつのうえで…
なんのはなしですかぁ…