幽霊だった日々
ずっと自分のことを、この世を彷徨う幽霊のようだと思っていた。
生きている感じがしない、というと何だか浅薄な若者のセリフのようだが、本当に生きている実感がなかった。
いつどこに居ても、私は「どこにも居ない」かのようだった。
「心はカラフル。悲しみの必要性」という作品で、私は母から虐待を受けていたことや、辛い感情を見ないようにし続けた結果、うつ病になったことなどを詳細に綴った。
そして、うつ病をきっかけに母との関係が変わったことにも軽く触れている。
うつ病を発症した私の心はもう限界を訴えていて、ひたすら見ないように誤魔化し続けてきた辛い感情が一気に溢れ出した。
それを母に、罵詈雑言という形でぶつけ続けた。
私は母から愛情を全く与えられなかったとは思っていないが、奪われたものや与えられなかったものの方が圧倒的に多いと感じている。
関係が変わったといっても、母のことは今も許していないし、許せない自分を許したい。
ただ関係が変わったと書いたのは、次の変化があったからだ。
それまでの母は私の言葉に耳を傾けることはなく、何を言っても寄り添ってくれることはなかった。
でも、うつ病になり、負の感情が溢れて止まらなくなった私が母をひたすら罵っても、母はほとんど反論しなくなっていき、受け止めるようになったのだ。
この変化は、私にとって天変地異のような出来事だった。
それまで、誰にも心の底からの本音をぶつけたことはなかった。
ぶつけたとて、「どうせ受け入れてはもらえない」と、幼少期に散々思い知らされていたからだ。
かつての母は、私が否定的な言葉を少しでも発すると、必ず支離滅裂な反論をしてくる人だった。
発言に筋が通っていない。あまりにも話にならないので、疲れて諦める。
私がうつ病になった当初も、彼女は相変わらず毎晩酒を飲み、酔っては私に絡む。
シラフの時は多少マシなのだが、話が通じないことや、一般的な感覚や常識が全く通用しないのはいつでも同じだった。
しかし、私が心の中に溜まっていた全ての憎悪や苦しみを爆発させ、一気に彼女にぶつけたあの日から変わった。
それからの母は、自分の非を認めるようになった。これは私にとっては信じがたいことだ。
幼少期の私に日常的に暴言を吐いたり、時には激しい暴力を振るいながら「私は子供を虐待して殺す親よりマシ」と口癖のように言っていた母。
自分は悪くないと、自身に言い聞かせたかったのだと思う。
そんな彼女も毒親に育てられたようで、その影響がいかに大きいかを私は身をもって知っている。
母は19歳の時にデキ婚し、姉、兄、そして私を産んだ。
父は私が4歳の頃に蒸発したため、全て聞いた話だが、父は生活費を家に入れず、他の女の家に行き、滅多に帰って来ない人だったという。
確かにうっすらと覚えている。父は「たまに帰ってくる人」だった。次はいつ帰ってくるのかなぁ、といつも思っていたことを。
親にも配偶者にも恵まれず、決して幸せとはいえない人生を歩んできた母。そんな彼女は、とてつもなく弱い人間なのだと思う。
親や兄弟と違って配偶者は自分で選べるものではあるが、彼女なりに幸せを求めた結果だったのだから仕方ない。
しかし、やり場のない悲しみや怒りを、立場の弱い我が子にぶつけたり、酒に逃げることしかできないのは、間違いなく弱い人間のすることだ。
私には子供はいないので、同じ親としての目線で見ることはできない。だが歳を重ねるごとに、同じ大人として、彼女のことを許せないと改めて強く思うようになった。
そして、我が子を悲しみと怒りの矛先にしていた彼女もまた、歳を取った。
でも単に歳を取って丸くなったというより、私がうつ病になり、これまで溜め込んできた全ての憎しみを大爆発させたことが、やはり大きなきっかけだったと思う。
「お前は親でも人間でもない。鬼畜か悪魔に違いない。ここまで言われても仕方がないことを、お前はしてきた」と私に言われても、うなだれて肯定するようになった。「言われて当然のことだから、何も言えない」と。
これが良い行いだとは、全く思わない。
暴言や暴力を受けてきたからやり返す。そんなことをしても結局またお互いに傷つくだけで、何の生産性もない。
でも、もう生産性が云々などと言っていられるような精神状態ではなかった。
鬼畜だの悪魔だのと言いたくて言っているのではなく、口から溢れて止まらなかった。
結局やっていることは母と同じなのかもしれない。でも、親と子では立場が違う。
少なくとも虐待されていた頃の私は、どこにも逃げ場がなかった。本来守ってくれるはずの親が攻撃してきて、それに耐えるしかない生活を強いられていたのだ。
これほどの理不尽が、他にあるだろうか。
私は溢れて止まらなくなった罵詈雑言をひたすら浴びせ続けるうちに、ほんの少しずつではあるが、うつ病の症状が改善してきた。
劣悪な家庭環境によって精神疾患で苦しんでいる人にこれを真似して欲しいとは言えないし、私も意図的にやったことではない。
ただ、あくまで結果として、母との関係はうつ病をきっかけに大きく変わったのだ。
しかし、まだ変わっていないことがある。
*
…どこからか、泣き声が聞こえる気がする。
私の中のどこかで、ずっと泣いている女の子がいる気がしてならない。
その子は泣いているのに、ずっと置き去りにされているからいつまでも泣きやまない。それはきっと、幼い頃の自分自身だ。
私は時々、その子と一緒に泣いてあげないといけない。そして、「よしよし」と頭を撫でてあげる。それができるのは私だけだ。なぜなら私の中にいるから、他の誰も触れられない。
これまでずっと、他者に「救い」を求め続けてきた。でも、誰からも救われることはなかった。
それは恋人でも、プロのカウンセラーでも、似たような境遇で生きてきた人でも同じだった。
絶えず抱えていた虚しさや孤独感をどうにかしようと他者に手を伸ばしても、どうにもならなかった。
なぜかいつも母と似たような、私の気持ちを全く考えない人とばかり恋愛をしては、不健全な親子関係の再体験を繰り返してきた。
そんなことをひたすら繰り返して、“外側”には「救い」は存在しないということに、ようやく気づけた。
それは、私の中にあったのだ。
そんな頃に聴いたある曲が、とても印象に残っている。
これは宇多田ヒカルの「PINK BLOOD」という曲の、歌詞の一節だ。
初めて聴いた時にハッとさせられた。まさにこれだ。
私の中にいる、今も泣きやまない女の子。
きっと心理学などの世界では「アダルトチルドレン」「インナーチャイルド」とかいう名前がついていると思う。
彼女を置き去りにしてきたのは他の誰でもなく、私だった。
本来、大人の保護下にあるはずの幼少期から、誰からも守られることなく、ひたすら傷ついてきた心。
私は他者に救いを求めて外側ばかりに目を向け、内側で泣き続けている“その子”と向き合わないままだった。
冒頭で、まるで幽霊のように「生きている感じがしなかった」と述べた。
これは痛みを無視して、麻痺させることで心を守ってきたせいなのではないだろうか。
ずっと麻酔が効いているような、ぼんやりとした感覚。
生きるために防衛本能が働いたのだと思うが、結果的には、生きているのか死んでいるのかも分からないような人生を歩むことになった。
私の中でいまだ泣きやむことのない女の子。
彼女は私が癒すしかない。
そうすることで、やっと私は本当の意味で「生きている人間」になれるのではないかと思っている。