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戦後教育を斬る!!(憲法夜話2)③

教育こそ民主主義の防波堤である

さて、幸いにしてワシントンが無欲な人物だったから、建国当初のアメリカが独裁政治になることは避けられた。

だが、これからもはたして独立宣言の理想は守り続けることができるのか?

衆愚政治に陥ったり、あるいはシーザーが出てこないという保証はあるのか?

独立の父・ジェファソンの悩みはそこにあった。

ことに独裁者の出現は、どうやっても防ぎきれるものではない。

今日の我々は、ヒトラーがワイマール共和国を利用して「総統」になった事実も知っている。

ヒトラーは独裁官になるまで、決してワイマール憲法を無視したり、蹂躙したことはなかった。

ワイマール憲法は当時の世界において「先進的な憲法」と評価が高かったが、そのような憲法をもってしてもヒトラーは防げなかったのである。

そこでジェファソンが望みをかけたのが教育の力である。

すなわちアメリカ人の民度(国民のレベル)をできる限り高くすることこそが、民主主義を守る最後の防波堤になるというわけである。

大衆が愚かであったら、どんなに高い理想を掲げても、よい政治は行なわれない。

衆愚政治になるばかりだと考えた。

そこで彼は教育の普及にひじょうに熱心になった。

結果としては実現しなかったが、公立学校を作ろうとしたのも彼だし、また大統領を辞めてからも故郷のヴァージニアに大学(ヴァージニア大学)を創立したり、教育の振興に尽力した。

イギリス議会政治を支えたヨーマンたち

よき民主主義は、よき教育によって支えられる。

このジェファソンの思想はまことに正鵠を射たものであると言わざるを得ない。

たとえばイギリスで初期の民主主義が発展したというのも、ジェントリーやヨーマンと呼ばれる独立自営の小さな生産者たち(大塚久雄のいう「中産的生産者層」)が社会で大きな比重を占めていたからである。

このジェントリーやヨーマンたちの特徴は何かと言えば・・

「志があって、教養がある」

これに尽きる。

志とは、誰にも頼らないというプライドである。

この当時、上流階級は自分の領地で小作人を働かせたりすることで、暮らしてきた。

もちろん、下流の人たちは誰かに雇われることで生計を立てていたわけである。

これに対して、ヨーマンたちは国王以外の誰に雇われるのでもないし、誰を雇うのでもない。

小規模ではあるけれども、誰にも頼らず、独立して生計を立てていくという気概を持っているのが、ジェントリーやヨーマンたちなのである。

また、それと同時に、ヨーマンやジェントリーには高い教養、言い換えると合理的精神があった。

当時の農民などとは違って、伝統主義で動いたり考えたりはしない。

近代的な目的合理性にしたがって、自分の仕事を行なうことができる。

そういう人たちが現実に存在したからこそ、イギリスでは自由とか平等という観念が発達した。

ロックが社会契約説という考え方を出せたのも、現にロックの近くにジェントリーやヨーマンという人たちが暮らしていたからだと指摘されている。

16世紀から17世紀にかけて、イギリスでは徐々にデモクラシーの思想が生まれ、それと同時に初期の資本主義経済が生まれてくるのだが、こうした動きの中心になったのが他ならぬ彼らだったのである。

入植後6年でハーバード大学を作った植民者たち

ところが、こうしたジェントリーやヨーマンという「中産的生産者層」は、イギリスでは資本主義の成熟とともに急速に消えていく。

18世紀のイギリスを「ヨーロッパの没落」と呼ぶ歴史家もいるぐらいで、イギリスでは急速にこうした人間が消えていった。

というのも、経済の発達に伴って農場主とか工場主といった、いわゆる資本家が現れると同時に、そこで働く労働者がどんどん増えていったからである。

誰にも頼らず生きていくヨーマンのような人たちはイギリスで暮らしていけなくなった。

では、このような人たちはどこに行ったのか?

そのうちの一部は新大陸に移住したのである。

そのことを特徴的に示すのは、植民地における大学の建設だ。

新大陸で最初に大学が作られたのは、1636年のことである。

マサチューセッツの植民地に作られたハーバード大学が最初である。

これがいかに驚くべきことであるかは、マサチューセッツに最初の植民者約1000人が到着したのが1630年だったという事実一つを指摘すれば充分であろう。

入植からわずか6年で、大学を作った!?

断っておくが、この6年の間、植民者たちは決して遊んでいたわけではない。

何もない荒野に上陸し、草を刈り、道路を作り、井戸を掘り、自分たちが住む家を造っていた。

生きていくことに追われながらも大学を作ったというのである。

なぜ、そこまでして大学にこだわったのか?

それは彼らが自身の教養の価値を知っていたからである。

約1000人のピューリタンの中の4、50人は、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の卒業生がいたと言われている。その他にも出版業者や宣教師というインテリが大勢いたということが、はじめから高等教育が重視された理由であったと思われる。(中屋健一『明解アメリカ史』三省堂)

アメリカには建国のずっと前から大学があった。

この事実を抜きにして、アメリカン・デモクラシーの歴史は語りえないのである。

つづく

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※ この記事は日々一生懸命に教育と格闘している現場の教師の皆さんをディスるものではありません。

【参考文献】『日本国憲法の問題点』小室直樹著 (集英社)

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