【読書メモ】『「正しさ」の商人 情報災害を広める風評加害者は誰か』(著:林智裕)
先日、宮下祥子さんという日本近現代史を専門とされる学者先生による、能登半島地震に関する「情報災害」についてガチギレしてる寄稿文(時評)を拝読しました。正月の能登半島地震の被災者でもある方で、現実を踏まえてかつロジカルに対象となる研究者達を一刀両断しているのが、なんとも清々しかったです(ご本人は怒り心頭でしょうけど)。
なんというか、アカデミックな議論とはこういうレベルでないと、と思います。政策ではなくアラ〇ア語で対決しようとか、〇〇〇劇場とか碌な根拠も持たずにお気持ちだけであげつらうような振る舞いではなく。
さて、本稿は約18ページほどの程よいボリュームで読みやすかったので、ご興味のある方は是非ご一読ください。註釈も丁寧についていて、紙媒体で発行される会誌も取り寄せてみようかと考えています(まだ販売前のようです)。
個人的に気になったのはこちらの一節。なんというか、どうにもカルト的だよな、、というか自分たちの結論ありきで現実の事実(事情)を捻じ曲げようとするのは左右問わずに全体主義的指向が強い集団に見られる傾向ですが、やはりカルトか、なんて思ってしまいました(本稿中で対象となっている研究者は3名ほどのお名前が挙がっていますが、そちらは文中でご確認ください)。
個人の頭の中の仮説はあくまで仮説にすぎず、現実のフィールドワーク等を経て適宜アレンジしていかないとなぁ、、でないといわゆる「情報災害」を引き起こすよな、なんて風にも感じたのは、前後して『「正しさ」の商人 情報災害を広める風評加害者は誰か』との一冊を手に取っていたからだと思います。
X(旧:Twitter)でのとあるポストでお見かけして、図書館で借りた一冊となります。「情報災害」とのフレーズはこちらで知ったのですが、「流言飛語」との言い方にすれば昔から(それこそ戦国時代から)なじみがあるものです(ゲーム「信長の野望」でもお世話になっていました)。
一昔前であれば、それこそオールドメディアの手の届く範囲で、かつ片務的な範疇にとどまっていたので「情報の拡散性」も限定的なものでしたが、その分、反証の機会が限られてその時間もかかる。また自浄能力がない組織だと「事実が隠蔽されやすい」といった側面がありました(サンゴは大切に)。
ここ20年位で、インターネット、そしてSNSという、双務性、利便性、汎用性の高い環境、ツールが定着してきたことで、反証機会の増加とその時間も劇的に短縮されることになり、いわゆる「情報の拡散性」が相対的に拡大されたこと自体は大いなるメリットだと思います。
ただその一方で「感情を揺さぶる様なデマ」が、これまた相対的にかなり短時間のうちに、取り返しのつかないレベルで広がってしまうとのデメリットも顕在化してきています。
長短は表裏一体とはよく言ったものですが、かといってこの流れ(双務性の情報流通)がとどまることはないでしょうから(あるとすれば独裁国家になる時です)、発信者となる人々自身もそのことを意識していく必要があるよなと、、ようはSNSを使用する私たち自身もいわゆる「情報を丁寧に正確に使う力(情報リテラシー)」を身に着ける必要がある、と個人的には。
さて本書では、情報災害の題材として、コロナ禍、福島、HPVなどを、データ(根拠)をもとに扱っておられます。特に、林さんご自身が福島県出身とのこともあるのか、東日本大震災にまつわる「風評加害」と長年戦ってこられて、今現在もその戦いを続けられています。
それこそ直近だと、能登半島地震にまつわる事案で、政府・知事がダイレクトに流す情報精度が一番高かったとの点に対し、「情報発信を生業とする」方々には猛省を促したい、特にオールドメディアの皆さま、と、自分自身への注意喚起とともに意識しておきたいところ。
また興味深かったのが「デマかどうかを気にしても仕方ない」という人ほど、自分の発言を振り返ることはせずに、、無責任で、免罪符にしているようにしか見えないなぁ、との点。元は津田さんという方のフレーズなのですが、最近の傾向はどうなんでしょうね、、私はブロックされてるので存じ上げませんが、まぁ、変わってないでしょうねぇ(彼個人への興味は皆無です)。
これに尽きると思います、そして注意していかないと、との自戒と共に。最近では特に左右問わずの活動家連中に、自己が望む思想を「真実」として流布するためであれば、現実に即した「事実」ですらガン無視する or 曲解する、それを指摘する人に対して口汚くののしる、指嗾してネットリンチをかます(ファンネルとの表現は笑いましたが)など、全体主義的な蠢動が垣間見えるのは、本当に不味いと戦前の過ちを思い返しながら、強く感じます。
私自身は、「事実」と「真実」はきちんと分けて考えるような思考訓練を、それこそ大学時代に叩きこまれたような覚えがありますが、最近の学問ではどういった傾向なのでしょうか、文理問わずに科学的に学問を進めていく際の基礎だと思うのですが、、うーん。
「人は見たいものしか見ない」とはカエサルの時代から変わりませんが、それだけに、自分の言動には責任を持つ、間違ったら謝罪して訂正するとの心構えは、現実社会で地に足を付けて、それこそアルバイト・正社員等は関係なく、ある程度の期間の仕事をしたことがある人なら自然と身につくような気もするのですが、、
そういった意味では、うちの息子は今修行中です。先日、最近始めたバイト先からロクな説明がないとかぼやいてたので、自分からも事前に確認しなよ、なんて会話をしました、、閑話休題。
にもかかわらず「流言飛語」が無くならないのは、発信側が受手側に対していわゆるマウントを取りたいから、その上で他者より早く称賛を得たいからとかの、承認欲求に根差すところがあるからでしょうか、、なんか、やってることがインプレゾンビと変わりませんね。
それがまだ、個々人の見栄で済む範疇であれば「災害」とまではならないのでしょうけど、それなりの力を持ったところがそれに絡むと、風評加害、情報災害へとつながっていってしまいます。
ほんと、オールドメディアは何様なのか、、と、それに踊らされている諸々なアレも含めて。それこそ「震災」で金儲けをしたいから被災者には永遠に被災者にいてもらわないと困る、ってのが根底のあるのではないでしょうか、、なんか、いわゆる弱者ビジネスとスキームが同じですね、同和利権とかの。
何はともあれ、「事実(ファクト)」に基づいた「情報活用力(リテラシー)」を磨いていくようにしておきたいところ。なお個人的には解釈との意味での「真実」は人の数だけ存在すると思っています、「事実」とは差別化されて。それだけに、現地(現場)の実情を可能な限りに確認するようにしていきたい、とも。
ざっと俯瞰してみたくて、とりあえず図書館で借りた一冊ですが、数々の情報災害の情報源も列挙されており、2次資料としても興味深かったです。
「情報災害」かどうか、まずは受け手になった時の自分自身で見極めていく必要があり、それを経てから発信していくとの過程を踏むように心がけたいですね。他人の言うことを無批判にそのまま流すのは楽ですけども。
そういった意味では、「まずは批判ありき」な要素が強い歴史学を基礎学問としていてよかったな、、とは、多かれ少なかれ、「学(び)問(う)」とはそういう活動だと思いますし。
そういえば、息子が通う大学(学部)の理念等には「データ・リテラシー」との概念が明記されています、そんなこともあり息子が手に取る可能性も踏まえて、自宅の本棚にも置いておこうと思ったのですが、続編的な位置づけの『「やさしさ」の免罪符』も気になりますので、あわせて並べておこうかな。
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