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【読書メモ】『それから』(著:夏目漱石)

夏目漱石生誕150年にあたる平成29年(2017年)9月24日、多くの方のご協力を得て、「漱石山房記念館」を開館することができました。文豪・夏目漱石が生まれ、育ち、執筆活動をした故郷の自治体に、郷土の偉人を顕彰する施設をつくるということは、新宿区としても長年の宿願でした。

出典:「新宿区立漱石山房記念館 ご挨拶」

今の職場が新宿との事もあってか、たまにこちらについての質問をされていかれる方がいます。また館内にはちょうど今やっている「《特別展》『三四郎』の正体 夏目漱石と小宮豊隆」のポスターを張ってもいたり。

私自身、初めて漱石に触れたのは確か高校の教科書での『こころ』、なかなかに考えさせられる内容で、今でも印象に残っています。漱石さんの文体との相性も良かったのか、新潮文庫版でそれなりの著作を揃えていたりも(そういや息子が高校生の時に課題図書になったと『こころ』を引っ張り出していました、、戻ってきてないな)。

で、今回思い出したのが『それから』。『三四郎』、『門』とあわせて前期三部作と呼ばれるシリーズになるようです(後期三部作は『彼岸過迄』『行人』『こころ』とのこと)。

本編の主人公は「代助」、とある資産家の次男坊で、大学は出たものの、30歳をこえても定職に就かず、フラフラと気ままな日々を送っています。結婚もしておらず、学生時代の友人「平岡」の妻「三千代」にほのかな憧れを抱いているものの、二人の幸せを祈ってる状況だったのですが、、その夫妻が仕事で失敗して東京に戻ってくるところから物語が動き始めます。

代助はいわゆる“穀潰し”なわけですが、家族には愛されているし期待もされている。今でいう、ニートや引きこもり、、ってほどにネガティブでは無く、当時の"高等遊民"との言葉がまさしく言い得て妙です。ただ、危機感のなさからくる“社会”との乖離はある意味共通しているのかな、とも。

背景となる時代は、日糖事件のころですから1910年前後でしょうか。一等国との自負はありながらも、借金で首が回っていない等々、日露戦争後の日本社会状況を冷静に見通している、そんな当時の知識階層の感覚もなんとなく垣間見えて面白かったりも。

そんな中での「金は心配しなくてよいから、国や社会のためになにかしなよ」との、父や兄の言葉はなかなかに象徴的だな、と。次男・三男に、金銭を稼ぐよりも公共性の高い事業へのケアを求める。そういった観点からの社会への還元はある種の分業とも取れますが、意外と昔から定着していますよね、ヴェネチア共和国での政治家とか。

さて、仕事にしくじって戻ってきた平岡夫妻、なかなか思ったような再就職もできず手元不如意に。そんな夫妻の危機に対し、金銭的には力になれない代助は自身の無力さを感じるものの、社会に対してはまだどこか他人事のようにも接しています。

そのまま十年一日のように過ぎていくのかと思いきや、夫婦間の根底の問題に触れ始めたころから、他人事ではなく“我が事”としてのめりこんでいくことに。

単純な愛情だけではなく、二人の不遇が故の同情もない交ぜになったその様子が、どこかアンニュイに世界と関わっていた代助が変わるきっかけになっていきます。そしてまた、代助の三千代への狂おしいほどの想いとがどこから来ているのか、そんな心の機微も濃やかに描かれています。

並行して進められているいわゆる“いいところの御嬢さん”との縁談の話との対比も象徴的で、価値観の合わない女性との結婚にイマイチ前向きになれない代助がのらりくらりとかわそうとする煮え切らなさも面白く、、どこか微笑ましくもみてしまいます。

食う為めの職業は、誠実にゃ出来悪い
食う為めだから、猛烈に働らく気になる

出典:『それから』

その上で興味深かったのは代助と平岡の仕事に対する意識の違いでしょうか。代助は「食う為めの職業は、誠実にゃ出来悪い」、平岡は「食う為めだから、猛烈に働らく気になる」と、これは今でも同じかなと。どちらも“あり”だと思いますが、状況によって変わるかな、と氷河期世代の自分としてはどちらでも理解はできたりも(共感するのは代助ですが)。

物語の終盤、代助は勘当された状態となり「職業を探してくる」なんて風になるわけですが、代助が「自分のこころに対して愚直なまでに誠実」であることは物語の最初から一貫していると思います。表面的には坊ちゃん然とした甘ったれにも見えますが、当時の家族とのしがらみや金銭的な問題をも飛び越えての代助の在り様と、それを受け入れようとする三千代は、なるほどなぁ、とも。

「仕事は“何のため”にするのだろうか?」、こんな問いかけをされているようにも感じました。「家族を養うためにきつくても嫌でも我慢して、働いてやっている」なんて風潮に疑問を投げかけながらも、かといって「霞を喰って生きていくわけにもいかない」との現実的な問題も対比させて。劇中の代助の選択肢はいくつもあり、自分だったらどうするだろうか、との投影も可能だと思います。

最後、代助と三千代、ふたりの“それから”がなんとも気になる終わり方となるわけですが、、物語としては生殺しですが、問いかけとしてはこのオープンエンドはありだなと。このような物語を当時の時代を踏まえながら描き出せるのはさすが漱石といったところ、今まで読み継がれているのもあらためて納得でした、、時代を越える普遍性があるからこそ遺っていく、と、同時代の物語たちをも眺めながら。

余談ですが、氷河期世代としては、こちらのポストがなかなかに響きました、、納得しかありません。


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