中国語の最難関!?補語について
【治天下五十年】
さて、皆さんは、中国語の補語についてご存じでしょうか。補語といっても英語の補語(complement/コンプリメント)とは、内容が全く異なります。
また、混乱なさるかもしれませんが、現代中国語、古典中国語(日本語でいう所の漢文)の補語を英語に訳すと、なぜかcomplementになってしまいます。また、日本の学校教育の漢文でいう所の補語とも、内容が異なります。
簡単に申しますと、中国語の補語というのは、動詞、形容詞の後ろ側にあって、その動詞、形容詞を修飾する言葉のことです。
ちょっと外れますが、英語では、言葉の単位というのは、
文(sentence/センテンス)→句(phrase/フレーズ)→語(word/ワード)のようになっておりますが、中国語の場合、
句→[短]語→[単]詞
というのが、ほぼそれに対応する、と考えていただいてよろしいかと存じます。
ところで、皆さんは、
「中国語には文法は無い」という言葉、または、
「すべての言語には完璧な文法が存在する」という言葉、或いは、
「英語の文法など簡単なので、そんなことは先生に質問するな。自分で調べなさい」のような言葉を、お聞きになったことは無いでしょうか。
先ず、2番目の「どんな言語にも完璧な文法が存在する」という謂いは、言語学者の先生方の立場といってよいでしょう。ただ、この場合、言語学者の先生方が仰る文法は、恐らくシンタックス(syntax)のことなのであって、グラマー(grammar)のことではないのだろうと思われます。
次に3番目の「英語の文法など簡単で、殊更、先生に質問するまでも無く、自分で調べれば事足りる」という謂いですが、こちらの文法は、恐らく、3人称単数とか、複数形とか、そういった語形の変化のこと、モーフォロジー(morphology)のことを言っているのだろうと思われます。そういうモーフォロジーは、ラテン語とか、フランス語、ロシア語等でしたら、自分で『語形変化表』という名の文法書を見るだけでは、よく分からなくて、先生に質問したくなるかもしれません。ですが、英語の場合、数が少ないのでそこまでする必要は無い、というような意味合いかと思われます。
そして、3番目の「中国語には文法は無い」という言ですが、皆さん、もうお分かりですよね。そう、言語学者の先生方が仰るように、中国語にも当然、シンタックスはあります。また、皆さんが漢文を勉強なさったご経験に照らせば、中国語にはモーフォロジーは無いのじゃなかろうか、と容易にご想像が付くものと存じます。漢文の勉強の際、三人称単数とか複数形とかそういった、お話は無かったものと存じます。
さて、最初にお話しした補語のことに戻ろうと存じます。中国語の場合、漢文と同様、語順が非常に重要です。ざっくり申しますと、中国語・漢文の補語というのは、述語(動詞・形容詞)の修飾語で、必ず述語(中国語では「謂語(谓语)」と言う)の後ろに置かれます。通常とでも申しますか、漢文でも中国語でも、(動詞・形容詞の)修飾語は、(動詞・形容詞の)前に置かれるのですが(そのように漢文の授業では習ったはずなのですが)、そうでないもの、後ろから修飾するパターンも実は存在する、というわけです。まとめると以下のようになります。
状→述←補
先行修飾語≒状語(状语)
後行修飾語≒補語(补语)
※両方とも述語(動詞・形容詞)に対する先行、後行。
※日本の中国語学では状語は状況語とも言う模様。
「えっ、ちょっと待ってくれ。でも、中学・高校で漢文を習った際、そんな話は一度たりとも聞かなかったけれど…」とお感じの向きがいらっしゃるものと存じます。
そうなんです。実は、日本の漢文では、伝統的にも恐らく、また、近現代の漢文教育においても、語弊があるかもしれませんが、いわば、補語(≒後行連用修飾語)は、オミットされてきた、と言えます。
ところで、皆さんは、こちらの漢文をどのように訓読なさるでしょう。
「治天下五十年」 曾先之 編『十八史略』
「(堯)治天下五十年」 作者不詳『列子』
「天下を治(おさ)むること五十年」
ではないでしょうか。これは、文法構造(シンタックスと考えてよいでしょう)については、訳することをオミットした訓読の方式です。やや外れますが、純粋に翻訳するのであれば、文法構造を原典と同じにする必要は無いものと言えます。実際、翻訳者の先生方は、そのように、直訳でなくいわば意訳をなさること、否、更には意訳からも離れて、日本語としての滑らかさを第一に重視して、翻訳をなさるはずです。ですが、そのような翻訳としてではなく、どちらかといえば直訳に近いものとして、捉えられるであろう、漢文訓読において、原典の文法構造を活かすのでなく、オミットする方法がここでは取られているのです。
しかし、実際には、漢文の文法構造そのものから言いますと、日本語で「五十年、天下を治めた」というのと同じ図式で、「治天下五十年」の『五十年』は、『治』という述語、動詞を修飾しているのです。
「五十年、治めた」のように言うのは、日本語では普通だし、漢文でもそれと同様、普通に「五十年」という言葉が修飾語になっているだけなのですが、なぜか「天下を治むること、五十年」のように、主述関係に文法構造を、敢えて変えて訓読している、ということ、述語と補語(≒後行連用修飾語)との関係から、主語と述語との関係に、敢えて変更しているのです。
なぜ、そんなことをするのか、なぜ返り点を打って、普通の日本語のように「五十年、天下を治む」と読まないのか、謎です。勿論、そのように訓読しても構わないのですが、「天下を治むること五十年」のように訓読する方が、漢文訓読としては普通なのです。