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オーガニックって「身体に良い」もの?

以前ラジオで作家がおすすめしていた本「村に火をつけ、白痴になれ~伊藤野枝伝~」を、最近読み始めた。なんだかハチャメチャだというから、なんだかハチャメチャな人の話読みたい~~!と思って読んでたら想像の5倍ぐらいハチャメチャで、面白すぎてしびれている。そもそも伊藤野枝とパートナーだった大杉栄との間に出来たお子に対して、「ゥチら皆に悪魔!悪魔!言われるから、悪魔の子で魔子(マコ)だね!」と名付けたエピソードがパンチが強すぎて一生笑ってしまう。(両親の死後、魔子は真子へと改名している)
飽くなき欲望って、まばゆすぎる。


ばあちゃんちに行くたびに食べまくっていた「豆腐かすてら」は、不思議な味わいでまじで超おいしいので、秋田南部にいったら是非食べてほしい話

マサちゃん(母)のかあさん、私にとってのばあちゃんの7回忌だったので、お葬式以来ぶりに今年はマサちゃんの地元・秋田へと帰省をしてきた。もうマサちゃん(母)の血縁は残っておらず、これが最後の帰省になるかもなと思いつつ、夏になっても冬の雪が降りつもる時期の名残がそこらかしこに見える街を眺めた。
マサちゃんが小学生低学年だったころ、雪降ると近所のお姉さんが大人用の撥水コートの中に入れてくれて、足元だけ見ながら登下校した。という話がとても好きなのを思い出す。
雪がとても深くなるので冬に行けたことは一度もない。夏の秋田しか見たことないのに、まるで日本昔話のようなその情景が、目の前に再生されるのはたくましい想像力のおかげかわからない。

泊まると実家に不便をかけるからと宿を探したけれど、予算の兼ね合いとご飯の評判を見極めた結果、行きついたのは民宿だった。その民宿は美味しいんだけれど本当に品数も量も多くて、普段夕方に遅めの昼食で早めの夕食も兼ねてしまう私たちにとっては、18時からご飯を食べる&量が多い夕食=まるで高校球児の身体合宿を疑似体験している気分。
そんでもって、食べなれない牛肉なんか頂いちゃったりしたもんだから、食後にちょっと散歩したくらいでは胃がぱつんぱつんで、気分も高揚して目もカッカしてしまって、なかなか寝付けず、眠りも浅かったりした。
けど幸いにも普段旅行に行くと高頻度で起こる、食べすぎや生活リズムの変化による腹痛や帰省後の体調不良がひとつもなかった。夏なのに。
ここで思い付く。

もしや、地産地消の鮮度の良さが体調を崩さなかったことに関係してたりするんじゃないのかしら~~~?!


保育園で牛乳を入れてある赤いポットがすごい好きだったなあ(牛乳が好きなんじゃなくて?)の話

さて、突然だけれど、私は半年だけ栄養士として保育園の給食室で働いたことがある。

そこの保育園の中で学んだ経験というのは、短い期間に反してかけがえのないものがたくさんあったが、その中でも一番大きい教訓は、「オーガニックは身体に”良いもの”なのではなく、”良くないものが入っていない”ということ」なんだなあというものだった。(トンチみたいな話だな)(一休さんの思考の柔らかさて憧れるよね)


働いた保育園は流山にある松の実保育園といって、私が3歳から6歳まで入所していた場所であり、真澄屋がリヤカーで引き売りをしていた頃から現在に至るまでお米・野菜・調味料などを卸している場所でもある。

園の中には季節で変わる掛け軸や芸術品が小さく置いてあったり、わらべ歌を積極的に取り入れる文化に力を入れていて、それと共に深い重心を置いているのが食事ではないんだろうかと働いて思った。
「物は大事に扱わなければ壊れる」ということを学んでもらうために食器はすべて陶器だったし、そういうところから始まる食事への姿勢が大好きだった。


松の実保育園では、毎日昆布・煮干し・かつお節で丁寧にだしを取り、その出汁を和・洋・中と料理の種類を問わずにたっぷりと使って料理をしている。
一つ一つが華美ではないが、でもシンプルに季節の野菜と果物などを惜しまず使った美味しい食事を日々クラスまで届けて、そして使い終わった食器を片付ける。そしてまたおやつを届ける。片付ける。を繰り返す。
すると、園に預けられる以前は「家では全然ご飯を食べなくて…」という親御さんとの面談時で得た伝言と共に入園した子たちが、園ではそんなこと露知らずの顔をして、バクバクとご飯を食べて、おかわりまでするという話を空になったお皿を通して、たくさん見て、聞いた。

もちろん家で何を食べていたか、どんなものが出されていたかを知る機会はほとんど無かったし、実際私は知り得なかったが、その中で考えたことは添加物や保存料が高いものを日々食べるのは小さい体積の身体だとある種、毒のようになり得るんじゃないだろうか?ということだった。

一つの物自体は微量で些細なものだとしても、それらが重なってきたり、身体の中で組み合わさってきたときに、このままだと良くない状態になってしまうことを身体が察知して「美味しくないから食べたくない」という行動に繋がっていたりするんじゃないのかしら、と。

身体が異変時に出す「信号」っていろんな形があるよねの話

身体は前回触れたように、本人の意思とは別に、身体を生かすために動かされている部分も大きい。
「美味しい」「美味しくない」という感覚というのは意外と侮れなく、今時点の身体にとって、必要なものを必要な量摂取するために把握するのに最適だったりする。
だからこの時、本当に美味しいと思っているのか、食べたいと思っているのか、目が、気持ちが欲しがっているだけなのかを見極めるのも大事なことだ。

大人になると体積が大きいので多少の「毒」を食べても、意外となんともなかったりする。それが積み重ならず、きちんと身体の中で処理されて、排泄されているうちは。
けれども、それらのどれかが崩れたときにじわじわとボディーブローがきいてくる、みたいなものが添加物や保存料や人工甘味料のような、化学的な調味料だったりするのではないだろうか。

それらがすべて悪いわけじゃないし、おかげで安価で長期的な保存が効いて、地域差によって格差が生まれるということがないというのは人類の知恵でもあるし功績である。けど、何事も用法用量だよね~。

ちなみに店で働いていても、子どものころ(主には小学生を卒業するあたりまで)オーガニック食品を食べて成長すると、高校生になったり社会人になったりして、いわゆる「普通の食事」をしていると、蕁麻疹がでたり、発疹がでたりして、食生活の見直しを余儀なくされるという話は、結構定期的に聞くものである。


だからみんな(?)旅は地方に行くのかしらの話

民宿で食べたご飯はどれも素材自体の鮮度が良くて、肉は火を通すだけ、魚は切るだけ、焼くだけで立派すぎる一品となり、だからこそあまり複雑な味付けをする必要がない。鮮度が落ちていくと味も落ちていくのは野菜でも果物でも肉でも魚でも、大体同じだ。
複雑な味付け、余計な味付けをせずに済むから、胃や身体にもかかる負荷が減り、排毒もせずに済む。
地産地消っていいこと尽くしなんだよなあ。

流山には山も無いし、海も遠いし、物流倉庫や流れるプールが建設されるために元々あった畑たちも農家もつぶれていく。けれども、少ないところで頑張っている農家はいる。生き残ろうとしている農家がいる。
美味しく食べて、消費して、支えて、支えられて、という循環をもっと広げていきたいなと、東北の豊かな食文化に触れ、改めて思う今日この頃であります。
頑張るしかない。なんか、いろいろと。


次回予告

次回は本屋に行ったらなんか目についた枝廣淳子著の「農業が温暖化を解決する!農業だからできること」をチラ読みしながら、昔色々手伝ったけど全然楽しくなかったアチくん(父)の畑での農業経験(薄)を書いてみます。

ではまた!


何かしらあればこちらでも

いついかなる時も何を書こうか悩んでおりますので、なにがしらの質問や読んでほしい本などあればなんでもどうぞ!という気持ちで、お題箱おいておきます。よろしくね
なんでもどうぞ (@masumiya_kabu) | お題箱 (odaibako.net)


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