Sagesse Sauvage〜サジェス・ソヴァージュ〜 〜内気で開放的なクオリアと自由意志のフラクタル〜 13年前の佐藤ツヨシの思考
はじめに
今年から発足した(サブ)サブゼミ「ねもと研」に参加してみた。何の気なしに、しゃべる場所が増えるからと参加したが、レジュメ作成の嵐となった。しかし、みんながおもしろいネタをもってくるものだから、どうやってでも おもしろいものを持っていかねばと努力を重ねないといけない状況になった。しかし、幼児ゼミ、SSGに続く第3のフィールドのおかげで自分の興味関心が広がる結果となり、大変だけどその分成長できた。 実のところ、幼児ゼミ、SSGのレジュメの試作品のようなものを持っていき、みんなに見てもらうというのが僕のねもと研での主な活動であったような気がする。その横着振り の中から幼児ゼミ、SSGのレジュメの成功の素以外に、ねもと研オリジナルの話のネタが生まれ、結構ドキドキワクワクしていた。
今回のねもと研論文は、題して「佐藤ツヨシの悪ふざけ」 として、様々な話を展開していこうと思う。ただし、その中で、つらつらと書き殴っていっても読んでいて面白くないので≪クオリア≫をはじめ、聞き慣れない言葉をキーワードにして話を進めていきたいと思う。「なんだいなんだい?クオリアって?そんな言葉きーたことないよ!」という彼も彼女も、この論文を読めばあら不思議、なんとなんと!なんとなく、クオリアの意味がわかるようになるのです。
そんなことがわかるこのエッセイ、おもしろく読み進められることを願いながらも、読み終えたあとのアナタに少しばかりのひっかかりを残せるよう努力して書き進めていきますので、どうかしばしの間、あなたの時間をこのエッセイ にあずけてもらってはいただけないでしょうか、とかなんとか。
1 she buttons anything convenient.
今や全てが便利なものになってきている。ボタンを押せば、ご飯は炊けて、パンも焼けて、冷凍のおかずも温められて、温かい飲み物だって飲める。テレビも見れて、音楽も聴けて、遠くのあの子と話せる…今や世界はボタンで出来ている、と言った哲学者がいたとか、いないとか。
この便利で素敵な世の中を僕は否定しているわけではない。この便利さにどっぷりつかって生きている僕は、急に「明日から電車なし」ということになったら、とりあえず下宿を探すか大学を辞めるだろう。僕はこの便利な世界を否定したいわけではないが、この浮世をどれだけ意味を持って生きていけるのか、を考えたいのだ。
どれだけの意味を持って生きているのか、というのは壮大で僕が語ったところで、その全てが僕に跳ね返ってくる。僕だってどれだけ意味を持った人生を歩んでいるのか、ということを考えても、僕の人生は僕にしかわからないし、僕にもわからない。つまり、誰にもわからない世界なのだ。ということは、あなたの世界はあなたにしかわからないし、あなたにもわからない。この、誰が何を叫んでも、啓蒙しても、笑っても、信じても、僕にもあなたにもわからない僕ら自身を、意味を持って生きるという意味を少しばかり考えてみると言うことの重要性を考えていきたいわけだ。
1−1 the world consists of anything subjective , but she lives in her world.
生きる、ということに意味があるのか。しかし、なぜ、どのように、意味がある、という理由を滔々と説明され、その理由に納得したから生きる、というのはなにか間違っているのではないか。「人は何故殺人を犯してはいけないか」という質問の答えは、意味もなく、理由もなく、人を殺してはいけない。というのが答えであるのと同じように「生きる」ということの中に時代を支配する便利で合理的な理由はない。
しかし、生きる、という自明の出来事の上に置かれた様々な事象に便利さが溢れている。生きることの上にある便利さが、生きるということの意味をぼやかしている。生きるということの上にある便利さは、ある人にとって便利で都合が良く、ある人にとっては不便で不都合である。便利なものが多くなり、絶対的に不都合なものが増えた。同じ確率である人にとっての便利と不都合が生まれるなら、便利と共に不都合が同じだけ増えるのである。良いことは覚えていても、悪いことはいつまでも根に持ってしまう のと同じように、便利が増えたのは頭でわかっても、不都合の増加は実感として残ってしまう。
つまり、便利は増えているし、不都合も増えている、ということだが、僕の便利とあなたの便利は違う。ここが世の中を考える難しさである。意味を持って生きるということを考える時、「誰かがこうこう言ってた」というのは参考になりはすれ答えではないのだ。
したがって、意味を持って生きる、というのは自分自身の世界を生きるということになるだろう。ただ、間違えたくないのは、自分自身の世界を生きる、ということが「自分探し」といった類の浅はかな流れに乗っているものではない、ということだ。主体性を持った自分世界を生きるアイデンティティの大切さと自分自身の主体性と他者の世界との関わりを積極的に行う大切さを僕は言いたいのである。
続く