
「青春」の先に広がる「人生」について
【『いなくなれ、群青』/柳明菜監督】
階段島。僕たちはある日突然、この島にやってきた。どうして島にやってきたのかを知る人はいない。島の秘密なんてものを、解き明かしたいとは思わない。この物語はどうしようもなく、彼女に出会った時から始まる。
ミステリーなのか、ファンタジーなのか。
その極めて曖昧な境界線の上で加速する、圧倒的にリアルで、詩的なジュブナイル。
原作小説の1巻〜2巻の内容ベースとしたこの映画は、主人公・七草(横浜流星)の独白のみならず、複数のキャラクターの視点を交えて物語が再構成されている。結果として、今作は、あらゆる観客が自分の居場所を見つけられるような青春群像劇として生まれ変わった。
幸福と不幸。
希望と絶望。
それら全てから隔絶された「階段島」。
その島の秘密が明らかになった時、もう一つの、いや、幾多の物語たちが新たな輝きを放ち始める。
そして、今作のタイトル『いなくなれ、群青』の真意が明らかになるクライマックス。数々の台詞に込められた意義が、美しく反転していく怒涛の展開は圧巻であった。
「僕は真辺の隣にいたいわけじゃない。ただ彼女が、彼女のままでいてくれればそれでいいんだよ。僕はね、少しでも彼女が欠けるところを見たくないんだ。」
「約束しよう。私たちは必ず、また出会うんだよ。」
二人の決別と再会に、いったい何の意味があったのか。
愛おしくて切ない選択の先に、いったいどんな未来が待っているのか。
その答えに気付いた時、涙が止まらなかった。
「青春」の輝きを讃える青春映画は数あれど、その季節の先に広がる「人生」についてまで鋭く批評してしまう映画は、決して多くはない。
だからこそ、今作には普遍的な可能性が秘められているのだ。
凄まじい映画に出会ってしまった。
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