父と担々麺 -父サチオの食欲増強大作戦- #032
父が入院した。
齢80歳を迎えた父(サチオ)は、数年前にある難病がわかり、その治療薬の副作用で骨がもろくなって、骨折したのだった。
食欲のない父を心配した看護師から、「何か食べられそうなものを、持って来られるといいかも」と言われた。コロナ禍にも関わらず、寛大だ。
しかし、父に食べたいものを尋ねると、
「いや、いいよ…。食欲無いから」と言う。
ところで、普段父が食べたいものは、「カルビ」「鰻」「穴子」である。
入院中にそんな脂っこいものを持って言ってよいのか、とも思ったが、自由奔放な母(※)は「良いんじゃない?でも、食べるかわからないわよ」という。
母は、食の細い父にも容赦なく「家に帰りたいなら食べて」と言い続けているため、両親は少し険悪になっていた。
父は味そのものよりも、有名ブランドや「高そうなもの」を美味しいと感じるようだと踏んでいた我々夫婦は、「国産」のカルビや、鰻を食べやすい大きさに切って、炊き立てのお米の上に載せて、入院中の病棟に持っていった。
久しぶりに会った父は、伸びた白髪を後ろにたなびかせ、往年の小泉純一郎さんのような、ライオン的出で立ちだった。
「うまい」
「やっぱり、カルビはうまい。そして、鰻だ」
そこはリハビリ病棟の簡素なホールだったが、父は『孤独のグルメ』の井之頭五郎のような荘厳な表情で、シンプルなセリフを言った。我々夫婦は、食欲のない父がカルビや鰻を美味しそうに食したことに、安堵した。
食べ終わった父は、空になった弁当箱を見つめつつ、おもむろに呟いた。
「実は、担々麺を食べてみたい」
担々麺…!?
これは困ったことになった。
今まで病人の見舞いに、担々麺を持ってきた人がいただろうか。
カルビや鰻でも、その芳醇な匂いを周りの人がどう思うだろうか、と我々は気を揉んでいた。担々麺ともなると、これはもう大変である。
病棟のホール中が、ラー油や山椒、白ごまや味噌、ニンニクや生姜などの豊かな匂いで一杯になるのだ。書いている今も、想像しただけで、よだれが出てくるくらいである。
目の前にはナースステーションがある。看護師さん達も仕事どころではない。他の患者達からも、次々に担々麺を食べたいという声が上がるだろう。確実にわれわれの(いや、元はと言えば父サチオの)せいである。
そもそも、担々麺をどうやって病棟に運んでくればいいのか。
せっかく弱っている父が所望しているのだから、カップラーメンや、コンビニの担々麺ではだめである。中華料理店の担々麺か、家で作ったものが良いだろう。病棟にお湯やレンジはなく、もちろん調理器具もない。初めて担々麺を食べる父に、冷めたものを食べさせるわけにはいかない。
病棟に、出前を取るのはどうか。
さすがの我々でも、「父が希望しているので、担々麺の出前を取っていいですか?」と看護師さんたちに確認する勇気は出なかった。
「…担々麺はちょっと」
と言われてしまえば、おしまいである。
私は妻と相談し、近くの中華料理店でテイクアウトするか、病院の近くにある実家で作り、なるべく早く届けるか、病院の1階にあるコンビニのイートインコーナーのレンジを借りて温め、ダッシュで病棟に持っていくことなどを考えた。
結局どうなったかというと、間もなく父は、退院し、担々麺は父の退院祝いになったのだった。
初めて担々麺を食べた父は、「辛いな」となんというか当たり前の感想を述べ、食べ終わると言った。
「お母さんの作った味噌ラーメンの方がうまいな」
少し肩透かしを食った私たちはしかし、両親が元気で、仲良くいてくれれば、それでいい、と思うことにした。
※自由奔放な母、タモヨシリーズ
2023年11月29日執筆、2023年12月9日投稿