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ハロー、チェルシーのない世界

「酔いそうー」

子どもの頃は車酔いしやすく、帰省ラッシュの渋滞にはまると決まって気分が悪くなった。本格的に酔う前に後部座席から助手席の母に自己申告。

つられて妹も「酔ってきた」と声を上げる。促音とカ行の引っかかりのリズムが楽しくて「酔ってきた、酔ってきた」と到底不調を訴えているとは思えないビートをふたりで刻む。にゅっと母の腕が伸びてくる。開かれた手のひらには色とりどりの飴玉。


「ほな飴ちゃん舐めとき」


大阪のおかんのイメージそのままに、母はいつでも飴玉を持ち歩いていた。いろんな大袋の飴を巾着やビニール袋に少しずつピックしているので、定番のフルーツにいちごみるく、べっこう飴やかりんのど飴などビュッフェのように選び放題。


ひとつ、気分で選んで口に放り込む。変わらない高速道路の景色や繰り返しのラジオの渋滞情報、充満する車のざらざらした匂い……単調で構成される世界をとろけるような甘みとコロコロと歯にあたる不規則な音が壊していく。


母が小袋をわしづかみにするがちゃがちゃという音が耳に届くと、飴玉欲しさにほんのちょっと早めに「酔った」申告をした私の心は弾む。だけど、時々、一向にその音が聞こえてこないこともある。母のとっておきのおでましだ。



鞄から丁重に取り出される手のひらサイズの黒く薄い箱。すっと引き出せばモダンな花柄の包み紙の四角い飴が一粒ずつ美しく並ぶ。花柄が緑ならヨーグルト、ピンクならバタースカッチ。一目見ただけで口にせずとも味が舌に広がる。


「これはいらん」
「なんでよ」


母は箱をもう一度押しつけてくる。他と一線を画す品を纏うそれは、私が渋滞中の車内で求めるものとはちょっと違うのである。

包み紙を外せば飴玉と呼ぶにはおこがましくなるような、板状。舌に乗せればそのまま音もなく溶け出し、クリーミーな風味がたっぷりと鼻に抜ける。

たしかにおいしいけれど、子どもにとっては大きな飴玉を右頬から左頬、左頬から右頬へと転がすのも楽しみで、退屈を吹き飛ばすフルーツのフレッシュさやしゅわしゅわ弾けるソーダの爽快感が恋しいのだ。

「あんた、これチェルシーやのに」

半分残念がるように、半分非難するようにこぼすと、母は前に向き直り、一粒口に入れる。


飴ちゃんはみんな飴ちゃんだ。「ぶどうの飴ちゃん」「しゅわしゅわする飴ちゃん」「中にガムが入っている飴ちゃん」「色が変わる飴ちゃん」と素材や特徴がそのまま名前になる。

そこへきてチェルシーは「ヨーグルトの飴ちゃん」でも「バターの飴ちゃん」でもなく「チェルシー」。

かたくなにものの名前を覚えないあの母がその名を呼ぶ。チェルシーはもはや飴の枠を超え、替えのきかない特別な存在なのである。



無性に食べたくなり、最寄り駅の改札横のコンビニを覗いた。

大人になってから、甘いものはほとんど食べない。お菓子はもっぱらスナック系。新卒で和菓子屋に入社し、一生分のあんこを食べてしまったからかもしれない。

それでも飴だけは好んで食べる。出かけ先でのどが乾燥したり、小腹が空いたりしたときに便利で鞄の中に常備している。中でも、チェルシーは移動のおともに駅構内のコンビニでよく買った。子どもの頃は理解できなかったあの溢れんばかりの特別感が、大人には沁みる。


郷愁を掻き立てるバタースカッチのこっくりした香り。そっと仕込まれた塩味が甘みを引き締めつつ際立たせてくれる。

ヨーグルトスカッチは口に含んだ瞬間きゅんと甘酸っぱい青春の味。べたべたと尾を引くことなく、ほどけるようにいなくなる。

たった一粒の口福で、今日をちょっといい日に振り分けたくなる。


食卓につく時間も、洗い物をする手間も必要ない。飴にしては少し高いけれど、数百円あれば手が届く、遠くて近いささやかなご褒美。



チェルシーは置いていなかった。少し前までは見かけた気がしたのだが。最後に食べたのはいつだったか。辿ってみると記憶はおぼろげで、自分が思っている”少し前”はきっと少しではないという実感だけを取り戻した。

目についたコンビニやスーパーのお菓子売り場を片っ端から回ったが見つからず、諦めかけた矢先、病院の診察前に立ち寄った100円ショップで念願の邂逅を果たした。


馴染みのある黒の箱ではなく、フレーバーごとに大袋に入れられ、ラックに吊るされていた。ああ!こんなところにいたのねと抱きしめるような気持ちで、ヨーグルトとバターを1袋ずつかごに入れ、踊るようにレジに並んだ。



「チェルシー3月末に販売終了」のニュースが流れたのは、その1か月後のことだった。SNSで全容を把握したときには、街中のチェルシーは買い占められ、メルカリで高額で転売されていた。おそらくあの100円均一にももうないだろう。

「飴離れ」なる現象が進んでいるらしい。たしかに友人に「飴いる?」と聞くと「いつも持ってるん?」と笑われる。そのままもらってくれる人もいるけれど、断られることも多い。

コロナ禍以降は出かけることも少なくなり、シェアを持ちかける機会すら減った。接客をしていても、昔は飴やガムを口に含みながらしゃべるお客さんの聞き取りに苦戦したが、ここ最近とんと見なくなった。

コンビニの商品の展開も、お菓子界隈はグミ一強。噛んで飲みこみすぐなくなる。そのインスタントさは今の時代に合っているように思う。


啓示のような衝動のおかげで、最後にもう一度だけ食べたかったと泣かずに済んだ。だけど、手元にある数粒を食べきってしまったら、もう二度と幼い頃から親しんだあの味を楽しむことはできない。

あのとき1袋ずつといわず、2袋買っておけばよかったと後悔は募るけれど、たとえあるだけ買っていたとしても、メルカリの転売品に大枚をはたいても、どうしたってチェルシーのない世界はやってくる。

記事を書きながら、緑とピンクの個包装の残りを数え、貴重なバタースカッチをひとつ口に含んだ。舌に乗せたまま転がすことなくするする溶ける。角のないフォルムは小さくなってもそのまま。表面が凸凹になったり、穴が空いたりしないから、口内を痛めることがない。子どもの頃は物足りなく感じたなめらかなまるみは、チェルシーに込められたやさしさだったのかもしれない。

最後の一粒はきっとこれまでより特別になる。だけど本当は、食べる人を思い、その最後の一粒が来ないよう綿々と守り続けてきた人たちの仕事こそがかけがえようもなく特別だったのだ。形を失う最後の最後まで大切にその存在を確かめる。



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