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「妻が一生HSPを理解してくれない」 精神障害者の私が、妻との子どもを授かるために奔走する理由


 夢がないんじゃない。夢を描いたって虚しくなるだけだと思ったからだ。

 不幸でいる方が、よっぽど楽である。だから何事も望まないようにした。しかしそう思っていた私の考え方は少しずつ変わっていった。まさか愛する人との子どもがほしい、だなんて。大昔の私に見せてやりたいものである。

 夢も希望も何もなかった私が、どうしてこんな風に今、奔走しているのか。「人は変われる!」なんて快活なメッセージ性のあるnoteではなく、これは「自分の変化を受け入れていく」。そんなごくありふれた日常の延長である。

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 199X年、私爆誕。

 関東の片田舎で育った。家は山々に囲まれ、最寄り駅までは車で1時間弱かかった。道路で当たり前のようにタヌキやキツネが寝ている。鹿と目が合うこともあった。右手にはバッタ、左手にはコオロギを持ち、私はただひとりで走り回って遊んでいた。

 渋谷や新宿などに比べたら、そこには「何もない」としか言いようがなかっただろう。何もなかったけれど楽しかった気がした。


「我慢できてえらいね」

 母はよくそう言って私を褒めた。私の家庭は、お菓子が禁止だった。ポテトチップスもチョコレートも食べられなかった。コーラやジュースもない。家にあるのは煎餅と、水か麦茶あたり。だけれどそれが私の普通だった。たまに友達の家に遊びに行った時、「ポテチあるよ!」と言われて出してもらっていたが、私の胸の中はもやもやとしていた。なんだかずっと、この味を知らないまま生きていた方が楽な気がしたからだ。ずっと我慢していれば、痛みはならされ、日常になっていく。


「譲ってあげてえらいね」

 通っていた幼稚園の先生は、私をよく褒めてくれた。それは私が我儘を言わず、先生の言うことを聞き、数に限りのある遊具を、必ず誰かに譲っていたからだ。

 私は誰とも遊具を取り合うことがなかった。ただ一度だけ、他の子とホッピング(乗ってぴょんぴょん跳ねて遊べるおもちゃ)を取り合いになりそうになったことがある。私はその子の表情、感情、空気を全て、余すことなく吸い取っていたように思う。何かに怯えるようにして、私はその子にホッピングを譲った。その子が今にも泣いてしまいそうだったからだ。

 いいよ使って、と私が言うと、その子は先ほどの表情が嘘みたいに明るくなった。私から奪うような勢いで、ばしっとホッピングを手に取り、一瞥いちべつもなく去っていった。


 私はその場で、わんわんと泣いた。立ち尽くし、泣き方もまだよくわからないような私は、ただただ泣いた。なにが悲しかったのか、その時はよくわかっていなかったように思う。

 そんな私を先生が見つけて、頭を撫でてくれた。えらいね、えらいね。譲ってあげてえらいねと褒めてくれた。

 私はえらかったのだ。

 そうだ。私は我慢もできて、えらい子なんだ。そして私は、"優しい子"になった。困っている子がいたら、自分のことは後回しにして助けていた。

 別にそれは何も当然悪いことではなく、良いことであっただろう。幼少期からそういった意識を持てることは素晴らしいことだと思う。

 ただ、苦しいな。

 私は自立、つまり自分で考えて行動していたわけではない。「こうしたら良い子でいられる」「こうしたら褒めてもらえる」ことを哀しく理解していただけなのである。

 そして極めつけに、私は真面目な生徒だった。

 休まず学校に行き、指示された宿題を必ずこなした。○ではなく、◎や花丸をもらうのが当たり前だった。テストでよく100点満点をとった。ただ周りの20点や、10点の生徒より、私の笑顔は少なかったように思う。淡々と日常がめくられていく。何が嬉しくて、何が悲しいのか、考えたこともなければ、正確に感じ取れたことも少なかったように思う。



「自分の夢を書いてみましょう」

 ある授業で、先生は顔いっぱいに笑いを広げながら言う。皆も「え〜〜!」と文句を言いつつも、"何かしらある"ようだった。

 配られたプリントには、自分の夢を書く欄と、その理由を書く欄があった。

 私には何もなかった。何が好きで、どこへ行きたいのかわからなかった。虫を捕まえることは好きだったかもしれないけれど、ほかにやることがなかったからだ。昆虫博士になりたいわけではない。

 よく野原を駆け回ったものだが、走るのが好きなわけでもない。ただ走っていれば、余計なことを考えずに済んだだけだ。陸上選手になりたいなんて思わない。夢を描こうとすると、"それは夢ではない理由"ばかりが浮かんでくる。その考え方はいつしか、夢を持たないことが、人生の正解であるような気がしてきてしまう。「夢を持たなくてえらいね」と、不気味に言われてしまいそうだった。


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 そのまま私は大人になった。

 何もなかったけれど、何かあるふりをするのは得意な大人になってしまった。

 大学卒業して、就職活動に入る。履歴書や自己PR書も、"いい感じ"には書くことができた。それは別に、どこでも通用するわけでもない。競争率の高いところでは見透かされてしまうような浅はかさを含んでいただろう。

 それでも、第一印象をよくすることは人並み以上にできていた。できてしまったのだろうと思う。それはのちに起こる不幸を、先延ばしにしているみたいだった。


 会社に入って、うまくやれると思っていた。なぜなら私は優しくて、気を使えたから。

 上司に食べたいものを聞かれたら、"相手が喜びそうな回答"を考えて提出した。きっと、駅前のあそこの店が上司は好きだからと思い、私はそこの店で食べたいことを伝えた。「そうそう、あそこの店うまいよな!行こう!」と、上司の機嫌はよかった。

 相手の話は常に聞き役に徹した。私はどうで、私がああで、と。私のことを聞きたい人なんて誰もいない。それに、私はそもそも何もないのだし。私が話をしたって、相手の時間を奪うことにだってなりかねない。そもそも、私と過ごしていること自体、無益ではないだろうか。そんなことをぐるぐる考えながら私は酒を酌み、その場に合った笑顔を選んでは貼り付け、喜びを体現するように忙しく動いた。

 かわいがってもらえた。

 私はとてもいい子である。とてもいい子。だけれど、「私」を知っている人は誰もいなかった。明るそうで、真面目そうで、優しそうな私は、何が好きで、何ができて、何をしたくて存在しているのか。誰も知らなかった。私自身も知らなかったのだ。

 そんな風に過ごしていたら、潮が引いていくみたいに私の周りから人がいなくなった。

 私はあらゆる人の表情、仕草、声色を感じ取り、間に受けた。それはどれが正解で、どれが不正解かもわからず、ある時には、全てをマイナスに解釈していた。

 気にしすぎる私は、だんだんと鬱陶しがられた。「そんなこと言ってないんだけど」「なんでそんな不安になってるの」「あなたの考え方と一緒にしないで」と、いつしか私は、周りに優しく、気を使っていたつもりが、それはとても気持ちが悪いものに映っていたのだろう。

 私は何も主張していないのに、私はただ聞いていただけなのに、我慢していたのに、譲ったのに、真面目なのに。私はプライドだけは高かったのかもしれない。これを書いて、記している今も、胸がきりきりと痛む。そして言われた———



「お前みたいな繊細なやつ嫌いなんだよ」

 その"刃"に含まれていた、黒く重たいものを全て感じ取った。私の今までの人生は、社会人になってから、一つひとつ否定されていった。

 だったらもっと自分を出していけばよかったのだろうか。我慢せず、誰にも譲らず、時に不真面目で。そんな人が皆輝いているように見えてくる。ここは本当に同じ世界なのかと思った。ひとつも私の「個性」「性格」は残っていなかった。私は私が何者かがわからず、鏡を見ればそこには他人が映っているようで、気色の悪さに嗚咽した。私は醜かっただろう。

 そうして私はうつ病、パニック障害、適応障害等を患っていく。もうこれが私の「個性」でいいやと思った。私という人間を、代わりにやってほしいとすら思っていた。


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 私は次第に誰とも連絡を取り合わなくなり、もともといた学生時代の友人とは10年連絡をとっていない。

 どんどん人が離れていき、私もどんどん人から離れていった。

 怖かった。誰かに嫌われるのが怖かった。好かれなくてもいいから、とにかく誰かに蔑むような表情を向けられたくなかった。

 当然恋人もできない。社会人1年目の頃お付き合いをしていた方を最後に、8年とひとりで過ごした。

 職場に行ってもひとり、街を歩いてもひとり、家に帰ってもひとり。そう、ひとりだ。ひとりはとても楽である。誰のことも考えなくていいし、誰にも気を使わなくていい。むしろ私がしていたことは、迷惑だったらしい。今までわずかにされていた感謝すらも、本当は違った意味だったのかもしれないと、こぼれてくる水滴に抗うようにして私は空を見上げていた。



 なにもない。

 だけれど、生きていくことは続いていく。そのためには働かなければならない。私はどこへ行っても居場所を失って退職していたが、生活のために、何度も就職を果たした。


「よろしくお願いします!」

 私は懲りずに元気よく挨拶をした。本当は明るくもないし、こんな笑顔を生活で出したことはない。ただまだなんとなく、こういう姿が受け入れられるだろうと思い、その行動を選択した。真面目で気を使える。ただそれをするだけで精一杯だった。自然と笑って楽しんだり、時に自分を優先し、不真面目に過ごせる人が、途方もなく羨ましかった。そんな風に思っていた時、ひとりの人が私の前に現れる。


「こちらこそ、よろしくお願いします!」

 天真爛漫という言葉がとても似合う。朗らかであたたかく、可愛らしい人だった。彼女は周りのどんな人よりも優しく、気を使う人で、誰の悪口も陰口も言わなかった。自分の意見より、他人の意見を尊重していた。困っている人がいたらすぐに助けていた。だが彼女を見ていても、不思議と我慢している様子や、自分の気持ちを押し殺して譲っているような様子もなかった。それはきっと、彼女自身が「そうしたい」と思い、心の底から行動しているからだった。

 誰かに褒められるためにとか、その時、その行動が周りから見て正しいからだとか、そんなことを考えて動いていない。彼女自身が、"芯からそういう人"であるから、あまりにも麗しかった。


 私が彼女に恋をするのに、時間はかからなかった。

 こうした出会いも、もしかすると初めてではなかったのかもしれない。何もなくて苦しく、それでもなんとか優しく生きて、やっと、誰かを芯に想う気持ちが私自身に育っていたのかもしれない。

 私は彼女に気持ちを伝えた。誰のところにも行ってほしくない。私のところにいてほしい。我慢したり、誰かに譲ったりなどする余裕はなかった。いや、これこそが私に生まれた本当の気持ちのようだった。

 何度も何度も好意を伝え、私は彼女とお付き合いを始め、現在私の妻となっている。

 今でも信じられないな。家でふたりでごはんを食べているなんてことない日常だけで、私は涙が出るほど幸福だと想う。こんなにも妻を愛する気持ちが生まれてくるのは、妻はいつも"私が持っているもの"を教えてくれるからだった。


 あなたは、
 こういうところが優しいよね。
 こういうところがいいところだよね。
 こういう時、こういつもしてくれるよね。ありがとう。

 妻はよく笑った。その表情は、私がどれほど探りを入れようと、心の底から生まれているものだった。

 私も自然と笑うようになった。誰と過ごしていても、偽りの表情しかできなかったのに、ごはんを食べ、散歩をし、布団を被り、一緒になって笑った。笑っていいのだと思った。


 しばらくして妻は、私の"望みのようなもの"も尊重してくれた。

 ずっと私は、書く仕事でやっていきたいと思っていた。「やってみなよ」と至極当たり前かのような表情で妻は言った。


 今まで気持ちに蓋をしていた。

 書く仕事を目指すこと、それを諦めれば、誰かに褒められるかと誤認していた。だが、そんなはずなかった。「私がやりたいことを、やってみていいのだ」。なんともこれは普通そうな言葉であり、途方もなく遠い場所にある言葉だった。

 私は書く分野を、今までの自分の経験に重ねることにした。うつ病やパニック障害、適応障害に強迫性障害、発達障害もある。そして書いていくうちに、私にはHSPの気質があることを知った。

 一つひとつ私は勉強していった。HSPがどんな人か、どんな人生を歩んできている人が多いのか。向いている仕事は何か。これからHSPはどうやって生きていけばよいか。お得意のぐるぐる考え込む頭でしきりに悩んだ。そうしてHSPの記事を多く書いていることも妻に話してみたのだが、妻はまだそれをよく理解してくれない。


「HSPってなに?よくわかんない!」

 私は熱心に、学んできたことを話していった。HSPはこんな人で、HSPはこんな状態になりやすくて、HSPは、HSPは、と。すると妻が、健やかに割り込むようにして言う。



「HSP、とかじゃなくて、あなたはどう思うの?」


 私は言葉に詰まってしまった。

 やっと私自身を理解できる特性に出会えたと思っていた。思っていたのに。いや、それはそれでよかったのだ。だが全てを、 "自分はHSP"という枠に入れ込もうとしていたのだ。

 私の意志や行動は、学べば学ぶほど、HSPの特性にならっていくようになった。まるで、そうしていた方が誰かに褒めてもらえるみたいにして。

 我慢すればいい。譲ればいい。真面目に生きればいい。そう思っていたことをもしかすると私は繰り返しているのではないかと思った。"全て"HSPとして生きることが正解だと錯覚していた。


 私はこれから、どうしたいのだろう。

 私はこんな時、どう思うのだろう。

 私の本当の望みは、一体なんなのだろう。

 HSPという特性を学ぶことは、あくまで支えの一部として考えることにした。全てHSPとしての人間でいなくてもよいのだ。だから私は私として、生きている意味があるような気がした。妻はHSPを理解してくれないのではなく、"私を"理解しようといつもしてくれていた。


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 妻と生活を重ねていくうちに、私にも夢ができた。

 それは妻との子どもを授かることだ。それは妻の昔からの夢でもあった。「自分の子どもがほしい」と。だけれど妻も、その相手になかなか恵まれてはこなかった。

 私は妻の夢を聴き、それは自然と、私にとっての力強い夢となった。なんでも気にしすぎたり、考えすぎたり、涙をこぼしすぎてしまう私だけれど、そんな私もいる中で、力を込めて夢を描きたくなったのだ。

 そのために、私は自信とお金を蓄えるべく、現在自分にあった働き方を探し、考え、行動している。ここnoteで発信活動やメンバーシップを始めたこともそうだ。いずれ、この書く仕事一本で生きていきたいと思っている。自分の書いた本も出版したい。今の私には、仕事の夢もあり、家族としての夢もある。


 そこへ向かって奔走するのだ。今までの誰かもわからない「私」ではない。やっと始まった「私」がそこにはいた。

 自分を変えるのは怖かった。変わったって、どうせ駄目になる気がした。周りは私が変わることを咎めた。お前なんかが頑張ってどうなると言われてきた。

 そう。そうだよねと私は諦めることにしていた。諦めている方が楽だとも思った。やってみて、それがうまくいかなかった時の恐怖や絶望に耐えられそうもない。ただ生きているだけでこんなにも苦しい思いをしているのに、努力するなんて、わりに合わないじゃないか。


 違ったのだ。

 生きているだけで素晴らしい、えらいと思う。だけれど、私の"生きているだけ"は、全て、気持ちを抑え込んだ終末でしかなかった。

 何かを成し遂げたとしても、人生はいつか終わる。その間は全て暇つぶしのようだとたとえられることもあるだろう。しかし私は、"自分を生きられない苦しみ"から、「死」と近いものを感じてしまった。

 私の父も母も離ればなれになって、私は中学生の頃からアルバイトをして、借金も当時あって、それでも社会人になれたらお金をたくさん稼いでいけると思ったらパワハラでうつ病になって、恋人もいなくなって、友達からも遠ざかって、書く仕事を目指す勇気もなくて、私は心底生きている意味がないと思い、ぜんぶ、終わりにしようと思っていた。その本当の本当に直前まで試みたけれど、できなかった。死の恐怖には勝てなかった。


 私は、一体誰なのだろうと思った。

 自死を試みた後の数年間、空っぽで乾いていた時間はとても長く感じた。死ぬことも私は許されていない気がした。そして私は、幸せになろうとしてもいけないのだと思った。何もせず、ただただ時間だけがすぎては老いていく。ある職場で働いていた時は、「あんたなんか今更幸せを願っちゃ駄目よ」と言われた。30歳になる手前、フリーターとしてひとりで過ごしていた私に、その言葉はあまりに刺さった。


 そうだ。幸せになろうとしてはいけないんだ。

 あ、そうだ。幸せを我慢し続けたら、誰かに褒めてもらえるかもしれない。頭を撫でてもらえるかもしれない。人に囲まれるかもしれない。不幸を叫べば、人が集まってくれるかもしれない。

 時に、どうしようもない現状の不幸もあると思う。だけれど、自分が行動してできるものを諦め続けているのに、それを「不幸」と呼んで叫び続けるのはもう辞めたいと思った。

 私はどうしようもなく弱いだろう。「奥さんがいてよかったね」と棘を刺されることも恐ろしい。それでも今日まで生きてきた自分の軌跡に誇りを持って歩み続けたい。

 今もこうして文章を書いているだけで涙が出てくる。不幸を叫んで、痛みを誤魔化す生き方が、楽なような感じがしてしまう。今でもそれに片足を取られてしまいそうな時がある。それでも、幸せに怯えながらも、私は自分の人生を、どうにか自分の意志で彩ってやりたい。


 私は私にできることを、1日1日積み上げていきたい。それだけである。そう思えるまでに、一体何年かかっただろう。

 ただ今また夢のプリントが配られたとしても、私は私として、笑っていられる気がした。また虫を追いかけて、野原を駆け回ってみたいと想う。


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詩旅 紡
書いて生きていくために頑張っています。 「文章よかったよー!」とか「頑張れー!」と思っていただけたら、あたたかいサポートをお待ちしております🍀 メンバーシップでもエッセイを書いているので、よければ覗きにきてください…!🌱

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