ノウハウより当事者の声を聴きたい。10年精神障害と向き合った私の感触と、自己受容のきっかけ
散々自分でも言ってきた。
精神疾患や特性を受け入れて、前に進むべきであると。繊細な自分がいて、うつ病になりやすい自分がいて、発達障害の自分がいて、様々な自分を私はたくさん許してきただろう。
ただ私は、
「自分のことが好きですか?」
と聞かれたら、言葉に詰まってしまう。そんなわけない。自分のことを「よくやっている」と言ってあげることはできるが、"好き"というワードが包容している自己肯定感は凄まじい。明るく輝かしいエネルギーをとてつもなく感じてしまうのだ。そんな光のようなものを私はまだ扱えない。
言うことはできる。「私、自分のこと好きだよ!」と他人に対してはこぼせるだろう。しかしその言葉と心が一致しているかどうかは、またもう一段階難易度が高い。正真正銘、心の底から、あなたは自分のことを好きと言えるだろうか。
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先日、私は会社を退職した。
適応障害と診断された。会社のことを考えただけで手足が震えるようになり、私のパニック発作も再発した。
理想が高かったのだろうか。週5日、1日8時間働くこと。それを私は「誰しもが越えられるハードル」だと勝手に設定していたのか。ただこれに対して、「自分の理想を高くしてしまった」と思うのもまた悔しいのである。こんなこともできない自分は弱く、脆く、無能であると責め続けた。
そんな私は、自分の障害を受け入れられなかった。
常に考えるのは「こんな自分じゃなければよかったのに」というものばかり。街ですれ違う人の笑顔を見ただけで胸が苦しくなる。
ただ私より苦しい状況でも、輝かしく生きている人が存在しているだろう。それが勇気になることはなく、その事実さえも私の心を窮屈にしていった。
この心の痛みを、少しでも和らげようとする時、私は「本」を頼った。それは自己啓発やノウハウ本ではなく、物語だった。
誰かの人生が知りたくなったのだ。
これを意識したらいいとか、大切なのは自己改善ではなく、自己受容だとか、私も散々言っている。それが救いになるのだろうと思う。でも、そうではない時もたくさんあるだろう。本来、私たちの心はもっと無数だったはずだ。
ノウハウを読むのに疲れてしまった人の孤独が、すこしでも薄まるように、私の障害や特性について、それぞれエッセイにしてみた。
こんな人がいる。綺麗事、正論、丁寧をほとんど省いた、そんな物語を綴っている。なかなか表では語りづらいことを多く含んでいるため、当事者の方や、当事者と連れ添う方には、芯にくる内容にできたかと思う。ひとつだけでも試しに読んでみてほしい。
●この世にもともと存在しなかったうつ病と、根性論
「なかったんだよ。父さんの時代も」
父は感情的だ。父はよく店員さんの私語を注意する人だった。「君たちそんな態度でいいと思ってるのか」と、100m離れた人にも余裕で聞こえてくる声量で怒鳴りつけていた。店員さんが商品知識について理解が浅いと「もういい。上の人呼んでこい」と言ったり、「こんな感じでいつも働いているのか」と言ったりする。その姿を見るのが心底嫌いであったが、父は私の前では至極やさしかった。
「自分のやりたいことをやりなさい」
父は私を否定したことが一切なかったように思う。酒、タバコ、ギャンブル、女、それらに執着するような人間にさえならなければいいと言った。私は真面目で平凡な子に育っていった。ただどこか快活さの足りない雰囲気もあっただろう。
そんな私は社会人になり、うつ病になった。
日々上司に罵詈雑言とともに詰められ、責任、プレッシャー、業務量、悪口、陰口、全てに屈した。出勤途中に道端で倒れた私は救急車で運ばれていた。手足が震え、寒さが止まらなかった。涙が止めどなく溢れ続ける。なんだこの「状態」は。私は自分がおかしくなってしまったと思った。取り返しのつかない人間であり、私は圧倒的に弱い存在であることを自覚した。自覚しすぎてしまったのかもしれない。
そんな私がうつ病で働けなかった期間、父は私に「そんなことでいいのか」などとは言わなかった。
いつもの店員さんへの態度を考えたら、それくらいの言葉を私にも投げつけそうなものである。私が息子だから甘やかされていたのか。それもまた少し違うことを、私は感じ取っていた。
「父さんはね、弱いんだよ」
父は20代の頃から役職がついていたような人で、自分が常に"指示をする側"だったと話す。自分のチーム、会社、家族を守っていかなければならないと思えば思うほど周りに厳しくなっていったそうだ。社内だろうと社外だろうと、口が勝手に動いてしまうらしい。店員さんだろうと、自分の部下に見えてしまうそうだ。
そんな厳しい父は、自分にもめっぽう厳しかった。取締役になったとしても誰よりも早く会社に行き、誰よりも遅く会社から帰る人だった。一切手を抜かず、サボるという概念すらなかった。
「根性で守ってやる」
そう父は思い、お金を稼ぎ、家族を守ろうとした。だけれど母も姉も、求めていなかった。その根性というやつをだ。
まだやれる、まだやれる、俺もやっている、だからみんなもやってみろ——、そう怒鳴っていたら、父の周りに社員はいなくなった。私の母も、私の姉もいなくなった。残ったのは私だけだった。そんな私は、うつ病になってベッドの上で体を横にしていた。
「生きてるだけでいい」
父は哀しそうな表情で言った。どうしようもなかったんだよなと父は言った。それは店員さんに怒鳴ってしまうこと、社員に怒鳴ってしまうこと、母に怒鳴ってしまうこと、私がうつ病になったこと、それら全てのことを言っていた。私以外の人には強そうに見える父は、とても、弱かっただろう。
だからといって、店員さんに怒鳴りつけていいわけがない。絶対にいいわけがないと言いたい。正当化はされない。だけれど、例えば私は、"人を殺してはいけない"という言葉を、真っ向から否定することができない。もしも私の家族が誰かに傷つけられ、命を失ってしまうことがあれば、私は迷わずそいつを殺めてしまうかもしれない。無論、想像の話である。社会でよく日和る私にも、そんなパワーがあるのだろうか。
「こんど、そっちいくよ」
何十年と会社員を全うし、退職した父は現在、毎日をただ生きている。存在している。誰にも会っていないと萎れてしまうだろうと思い、私は時たま、父に会いに行っている。その時、父は言葉を涙のようにいつも零すのだ。「お前の顔を見れるだけで幸せだよ」と。みんな弱い。弱すぎると思うよ。
私が勝手にすることだが、全員、全部、それぞれに弱い理由があると思ったら、なんでも赦してしまいそうである。
●適応障害って、お前が言うなよ
もう何個目の職場だろう。
またどうせ辞めることになる。そう思ってしまうのはきっと良くないことであるだろう。だが「今度こそうまくいくはずだ」と思っていたのにうまくいかなかった場合の衝撃に自分が耐えられるとは思えなかった。
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作家を目指しています。