物書きをしていると、だんだん、誰かを救っている場合ではなくなってくる
「人に価値を与える文章でないと…」
書く意味がない、とでも言いたげである。勝手な被害妄想であろうか。価値を与える文章でないと、広く多くは読まれないし、単なる自己満足で終わるけど、いい?と言われているような感じだ。
私は一生、物書きでいたい。
今回このnoteで呼びたい「物書き」の意味は、例えば"小説、評論、エッセイなどの文章を書く職業の人"といった硬く、狭まったものではない。
"文章を書いている人"を、私は総じて物書きと呼んでいる。noteを書いている人はもちろんそうだし、Xでの140字以内の呟きだってそう。自分だけが見る日記をつけている人もそうだし、手紙を書いて、誰かに贈っている人もそう。「これあっためて食べてね」と付箋に書き、ラップをしたおかずに貼り付ける人も、かくれた物書きだと私は思っている。
私は文章を書くことが、「好き」というより、「これしかないなあ」という感覚がある。消去法というほど気弱な感じではないが、自信が誰よりもあるといった強気の感じでもない。「結局ここに戻ってきてしまうだろうな」という健やかな帰省本能かもしれない。
noteという街をひとつ観察してみたとして、ほとんどの人間は「文章を書いて、それで稼いで生活できたらなあ」と思っている人が、濃淡はあれどほとんどなのではないかと思う。実際そう口にしている人は沢山いるし、口にはせずとも、それが滲み出ている人の文章を読んでいると圧倒されるようにそう思う。鮮血が飛び散り、"どうしようもなさ"を感じる文章は、私をそういう気持ちにさせる。
この"どうしようもなさ"というのは、文章の質の悪さをいっているわけでは当然ない。「物書きとして生きるしか、あなたにはないよね」と思わせることである。少なくとも私は、そう思われることが幸福であると認識している。
私は物書きの世界で無名中の無名で、全くもって満足に稼ぐことのできていない人間である。一筋の光を探しては掴みかかり、それが実体ではなく落胆するような日々だ。それでも感触のある光を、どうにか探して書き続けている。
読んでもらえるのであれば、私は価値ある文章でも何でも目指して書きたいと思う。だけれど、何度見ただろうな。読み手に寄り添うというより、媚びているような私は。
価値ある文章を提供するよと謳いつつ、頬杖をついているような内容は読み手に基本バレバレなのである。結果頬杖をついていなかったとしても、心が通っていない文章は読んでいて、とてもつめたい。
私は何度か、つめたい文章を公開してしまった覚えがある。そしてこれは勝手な苦しみだが、自分が書きたいと思って書いたわけではない文章が普段より読まれなかった時、「私はなぜ物を書いていたんだっけ」と嗚咽するのである。
誰かを救う文章を書いてやっていきたかったのに、私はだんだん、それどころではなくなっていった。早く、早く"自分を救う文章を書かないと全てが台無しになっていく"ような痛みと焦燥を感じる。そうして手を走らせる時、人は息継ぎをするような姿を見せることがある。
水泳選手の息継ぎを見ると、しぶきをあげ、とても逞しく、美しく、「正直」であると思う。息が続かないから、時たま顔を上げて泳ぎ進むのだ。それはとても正直な動きといえるだろう。
物書きも近い。潜って、腕を動かし、足を動かし、途中息継ぎを挟みながら、ぐいぐいと進んでいく。そうした姿を見て皆、そして本人が躍動していく。
ダムが決壊したかのように文章を書き始める時、私は重力を感じない。どこか水の中にいるような感覚になる。潜って、潜って、必死に下に手を伸ばしている。時に「光」は、上ではなく、底にある。
自分の満足を探し、だんだん、いつものフォームで泳げなくなる。犬かきのような姿になり、それでも泳ぐことを辞めない、辞められないのだ。公務員でも、会社員でもない。物書きしかない人間にとって、地に足をつけることは「安堵」にならない。
私は結局のところ、沢山読まれたいのだと思う。「沢山」の先には、「文章を書いて、それで生活をする」という道、職がある。ただ「沢山」だけをめがけていると、人はよく溺れる。自分に一番近い、自分という人間をまずは愛していく。必死に考えて、憂いたり、潜ったり、飛び上がったりする自分から目を離さずにいたい。そして今読んでくれている人に、感謝を忘れてはならない。
他にも、誰にも気づかれない場所で書いている物書きがいる。ひっそりと、最期は燃えて、文章が灰になっても構わぬかのように。それか、自分が最期を迎えても、その先もどこか世界に残り続けてほしいと願うかのようにして。
そんなに壮大にする必要もなかったかもしれない。基本人生にドラマはない。至極あっさりと進んでいく。そんな中で「自分」を見過ごさない。水面に心を浮かせ、力を抜く時間も必要だ。自分の痛みを無視するような人間が、誰かに価値や癒し、豊かさを渡すことはできないだろう。
皆どこかで必ず文章を書いている。文章を書くことから、私たちは逃れられない。だから時折、自分の文章に救いを求めるのは当然、フェアであると私は思っている。