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五郎さんは仙人。私のワガママなお願いと 『山田五郎 オトナの教養講座』のすすめ。

10月4日、YouTubeを見て初めての感情と出会った。

その日私はおじちゃんのお葬式を終えて帰宅すると、喪服を脱ぐやいなやすぐにベッドに直行した。軽い車酔いと寝不足とで体がしんどく、多分気持ちも無理をしていた。横になりYouTubeを開くと大好きな動画「山田五郎 オトナの教養講座」が出てきた。こんな日こそアート。こんな日こそ五郎さん。私は「やったぁ」と飛びついた。

しかし喜んだのもつかの間『山田五郎からのご報告』と赤と黄色の文字が目に飛び込んできた。時間も13分と短い。「まさか終わっちゃうんじゃないでしょうね」と思いながら動画を開くと、いつもの五郎さんがいつもの調子で話し始めた。

それはまさに「ご報告」だった。腰が痛かったのは癌だったからで、すでに抗がん剤治療を始めているという。五郎さんの話し方なのか、立ち振舞からなのか、それは本当にご報告だった。告白ではなくて。

今まで何度となく病気の告白を聞いてきた。身近な人からテレビの向こう側の人まで。関係やシチュエーションは違えど、それらはみんな告白だった。だけど、五郎さんのは報告だった。

「昨日雨に降られてさぁ、まいったよ」みたいな。

だから私も「雨に降られたんだ、それは大変だったねぇ」みたいに受け止めた。

もちろんびっくりはしたんだけれど、なんというか劇的に泣いたり、落ちこんだりという風にはならず、肩の力が抜けた感じで、自然に受け止めている私がいた。こんなことは初めてで、こんな気持ちも初めてだった。

感動というと、大げさすぎて、五郎さんに申し訳ない。感動なんてこの気持ちに比べるとなんか人工的すぎるし、嫌らしい感じにさえ思える。そんなわかりやすいものなどではなく、後からやっと気づけるような何か。それは小さな雨粒の様に何気なく、私の中でゆっくりと波紋が広がっていった。

それにしてもこんな風に聞き手に負担を負わせることなく、緊張させることなく重い病気を伝えることができるのだろうか? 

私は一度「癌の確率50%」と医者から言われたことがある。言われてから検査の結果が出るまでの1か月間、病気と同じくらい私を悩ませたのがこの告白問題だった。

もし癌だったら、誰にどんな風に伝えよう?

できることなら誰にも言わないでおきたかった。でもそんなわけにはいかない。親や親しい友人の顔が浮かぶ。どれだけ私がさりげなく伝えようとも大袈裟になるのが目に見えた。だいたいさりげなくなど私には出来っこない。やればやるほどわざとらしくなり、逆に相手に気を遣わせてしまうのが目に浮かぶ。コントだ。想像しただけで疲れた。

この時私は病気を告白する難しさを痛感した。幸いその時は想像だけで終わり、この答えは私の宿題になった。といっても、とりあえず問題回避した私は、喉元過ぎれば熱さを忘れるで、あっという間に忘れた。

私は五郎さんの報告の動画を見た後、しばらくしてからこの事を思い出し、呆然とした。

もう一度動画を開く。

あの時の答えがそこにあった。

しかし、あんなふうに自然にふるまえるものなのだろうか?
そうしたくても、普通はどこかに力が入ったり、不自然になったりするんじゃないだろうか?
あの泰然とした、それでいてチャーミングな佇まいはなんだろう?

私は五郎さんに憧れの仙人を見た気がした。

いや、ずっと見てきた五郎さんは実は仙人だった。


私は2021年の秋、この『山田五郎 オトナの教養講座』に出会った。そして救われた。たくさん助けてもらった。その年の夏にママが死んであちら側に行った。その時から私はテレビがダメになった。見れなくなった。うるさすぎた。急に入ってくる暗いニュースも受け付けなくなった。サブスクの映画やドラマも全てがうるさく感じられ、頭に刺さり見ていることができなくなった。

テレビを見れなくなったのと同時に夜寝られなくなった。いつでもどこでも寝られることが自慢だったのに、嘘みたいに寝られなくなった。そんな私の夜の友になったのがYouTubeだった。信じられないことだけど、私はそれまでYouTubeを数回しか見たことがなかった。遅咲きYouTubeデビューした私が早々に出会ったのが『山田五郎 大人の教養講座』だった。

すぐに夢中になった。アートの世界が拓けた。私の世界に色が戻ってきて、絵画が好きだった気持ちを思い出させてくれた。

漠然と見ていた絵画が五郎さんの解説を聞くにつれて立体的になった。バラバラだったそれぞれの絵画を、流れの中で観ることができるようになって、図書館で、本屋で、アートコーナーを覗くようになった。

好きなアーティストも作品も増えて、その絵を見るために行きたい国もできた。悲しみに溺れ、無気力、無関心だった私にとってそれは物凄い希望となった。自分の心が動いたことがうれしかった。

それから2年半後、五郎さんのデ・キリコの回の動画を見た私は「あっ」と昔の記憶が蘇り、その気持ちを辿った物語をnoteに書いた。『書けた』と言った方が正しい。そのデ・キリコ展にも行った。

全然好きな画家ではなかったけれど、台風が来ている最中、最終日に私はわざわざ上野へデ・キリコ展を見に行った。五郎さんもおすすめしていたし興味もあったが、なんとなく記事に書いた義理みたいな気持ちがあった。好きな画家の絵を見に行くのとは全く違う気持ちだった。

年代順に並んでいる絵を五郎さんの説明を思い返しながら観ていった。五郎さんが言っていた通り作風が時代によって大分違う。変化していく絵を辿っていくうちに私とデ・キリコの距離がどんどん近づいていった。

私は一枚の絵の前に来るとそこから離れられなくなった。なぜか熱い気持ちになり、涙が出てきた。そんなことは初めてだった。

『燃えつきた太陽のある形而上的室内』

五郎さんも番組内で紹介していたけれど、その時は何とも思わなかった。太陽と月とギザギザと、子供が描いたようなふざけたイラストみたいな絵。しかし絵の前に立つとそれは画面越しで見たものとまるっきり違っていた。エネルギーが溢れ出ていた。自由で、自然で、力みがなく、前に前に出てくる明るい力が私に向かって注がれた。

1978年90才で亡くなるデ・キリコの1971年の作品。晩年、80才を過ぎて描いたものだなんて信じられなかった。その絵は生きていた。

私はデ・キリコのその絵から出てくる力に共鳴していた。惹きつけられて動けなかった。私にとってその絵はその瞬間から特別なものとなった。

私はその日、会場を3周した。上がっては降り、降りては上がった。最後にあの絵の前に行き、あの絵のパワーを浴びた。そして約束した。

「いつか会いにイタリアへ行くからね。その時までバイバイ」

絵を前にしてそんな気持ちになったのも、そんな約束を口にしたのも初めてだった。素晴らしい経験だった。いきなり親友ができたような、私だけの宝物を手にしたような特別な気持ちになった。

私をこんな気持ちにさせてくれたのも、私をこの絵まで導いてくれたのも全ては五郎さん。

「山田五郎 オトナの教養講座」のおかげだ。

五郎さんはアートと私をつなげてくれた恩人だ。でもそれだけじゃない。書いたり、観たり、泣いたり、約束したり、私の中で次々と何かが起こっている。何かが生まれている。感謝や「ありがとう」だけでは全然足りない。

五郎さんのご報告を聞いた翌日、朝起きてすぐ動画を開いたら、みんな五郎さんにそれぞれ気持ちを贈っていた。花束みたいに。それは前日よりずっと増えていた。会ったことはないけれど、みんな同じ気持ち。恩人にエールと感謝をおくっている。

3年前ママが亡くなり、コロナ禍で外にも出れず、悲しみのどん底にいた私は五郎さんのYouTubeに出会い、救われた。だからこんなお願いをするのはどうかしてると思う。恩人に頼むことじゃない。家族や五郎さんファンから絶対に怒られる。

でも五郎さんにどうしてもお願いしたいことがあります。

「どうかムリをしても続けて下さい」

痛い痛いとか、もうムリだよーとか言いながら「山田五郎 オトナの教養講座」をゆっくりでいいので続けて下さい。お願いします。

私の知り合いは余命3ヶ月と言われてから10年経った今でも麻雀を楽しんでいるし、仙人の五郎さんなら癌を手懐けて仲良く共存していけると確信しているのでこんなお願いは無用なこともわかっています。でも、お願いします。

私もあのデ・キリコの絵のようなパワーを送ります。

大変な時に大変ワガママなお願いですが、どうぞよろしくお願いします。

そして、これはまだ動画を見たことがない人にお願いです。

もしまだ『山田五郎 オトナの教養講座』に出会えてないなら、ぜひ見に行ってみて下さい。五郎さんが芸術家と一緒にあなたを待っていてくれます。新しい世界がひらけ、この世界が少し優しくなります。
「山田五郎 オトナの教養講座」おすすめです。


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