『つまらない』は悲しすぎるけど、『つまる』はきっと満たされている
「つまらない」と言われると、悲しくなる。
自分が、誰かが、作り上げたものに対して、一緒に過ごす時間に対して、その言葉が発せられると、そこは一瞬でさびしい空間になる。すべてが本当につまらないような気持ちになる。
辞書に『つまらない』は、「ばかばかしい」「面白くない」とある。なら、まだそう言われたほうが、わずかながらも愛を感じる気もする。
つまらない。ツマラナイ。
氷のように冷たい言葉。カラカラに乾いた逃れようのない言葉。
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どうして『つまらない』の反対語であるはずの『つまる』に、ネガティブな意味しかないのか。それが、ずっと疑問だった。
息がつまる、お金につまる。
『つまらない』が、面白くないという意味なら、『つまる』には、最高に面白いという意味があってもいい気がする。
以前、語源を調べていたら、最初に『つまる』があって、行動や思考が行き詰まる、そこまで到達するということから『納得する』というプラスの意味になり、そこからの否定形である『つまらない』は、『納得できない』、『よく分からない』という意味になった、とあった。
江戸時代くらいの大昔には、『つまる』を『よくわかる』『納得できる』というプラスの意味で使うこともあったらしい。
もうそれ以上入らないということならば、感動がもう心に入らないくらいにいっぱいで、喜びに満ちあふれている、みたいな明るい意味がもっと広まってもよかったのになと、ことあるごとにひっそりと思っている。
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日本の奥ゆかしい文化のひとつに、「つまらないものですが、どうぞ……」という常套句がある。
これをさらりと言えるのが、大人になるということなのかもしれない。そんな妙な憧れを若き日の私は持っていたのだが、実際に、この常套句を一度だけ使ってみたことがあった。
大切な人にお土産を持っていった時だった。
そうして、その言葉をつかった結果、顔面から火が出そうなほど、ひとり恥ずかしくなった。
なぜだったのだろう。
思うにまず、「つまらないもの」だと言って、つまらないものをその人に渡すことがとても申し訳ないと思ったからだった。
言葉上のことと分かってはいても、つまらないものを大切な人に差し出すのは、失礼なことなのではないか。それなら渡さないほうがいい。「本当はつまらないものだと思って渡しているわけではないのですがっ」と心のなかで叫んでみても、口から出た言葉は戻せない。
次に、借り物の言葉を使ってしまったことを、恥ずかしく、みじめに感じたからだった。
自分が本当に思っていないことを口に出してしまった、という罪悪感。つまらないものですが、なんて言ってる自分が相当つまらないじゃないか、と恥ずかしくなった。発してみて気づいた。
それ以来、この常套句は一度も使っていない。
「お気に召すかわかりませんが、」であれば、少なくとも自分はよきものだと思って選んだのだと伝えられる。受け取ったほうのお好みで、もしかしたら気に入らないこともあるかもしれませんが……どうでしょうか? という想いを汲んだ言葉になる。
最初から『つまらないもの』として渡すのは、やっぱり何か違う気がしてしまう。
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ごちゃごちゃと書いたけど、やっぱり私は『つまらない』という言葉が苦手なのだ。その言葉を聞くと、しみじみと悲しくなってしまう。
そんな恐ろしい刃物のような言葉は、他の人にも絶対に使わないと決めている。もし仮に、その対象、例えば誰かが創ったものに対して心が動かなかったとしても、それはただ単に自分の受容体の問題で、その対象がつまらなかったと断言できることではない。
そして、思う。
『つまらない』と言われたらこんなに悲しいのだから、その反対語の『つまる』は、やっぱり最高にハッピーな言葉なんじゃないか。
つまらない人生より、つまった人生。
なんか、いい気がしてくる。気のせいかな。
『つまる』のポジティブな意味が、手持ちの辞書に載る日なんて来ないだろうけど、自分の感覚を的確にあらわしてくれるこの言葉を、私は地味に小さな声で使い続けたい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!