ここ一年ちかく、毎日納豆を食べている。 すんごく好きというわけでもなかったのだが、「良質なたんぱく質」というパワーワードに魅せられて食べはじめたら、いつのまにか中毒のように、毎日食べないと落ち着かなくなっていた。 「また納豆?」という家族の言葉を受けながしながら、せっせと買いこんではかき混ぜている。 ところが、である。 これほど毎日納豆と対峙しているというのに、食べる前にいつも小さな不安をおぼえてしまう。 納豆の食べ方、これでいいのだろうか、と。 まずは、納豆を食べる
この地に引っ越してきたのは、2020年3月の下旬。 未知のウイルスがじわじわと蔓延しはじめたころだった。 引っ越しそうそう、原因不明の体調不良になった息子は、川崎病と診断されて、すぐに入院をした。付き添いでほぼ眠れない日々。はちきれそうな不安と、決定の連続。あの時間をどうやって乗り越えたのか、うまく思い出すことができない。 さいわい、早期の免疫グロブリン療法を受けることができ、二週間たらずで退院した。お世話になった医師や看護師、医療従事者の方々へ、どれだけ感謝してもしつく
前話へ もくもくと、黒い線。 あれはなに? 真那の鼓動が勝手にはやまっていく。 民宿に近づくにつれ、その線はくっきりと太く浮かびあがる。混ざり合わない青と黒。その不気味な色合いに、胸がざわつく。車の窓は閉めきっているのに、焦げくさい臭いが鼻をついた。 民宿が燃えていた。 屋根から煙がもうもうと上がり、窓から赤い炎がちらついている。 車から飛びだし、真那は走った。 まこと、お父さん、サワオ、保井先生、お客さん。 みんな、どこ? どこにいる? 火の熱さ
前話へ 次話へ 第4章 花咲く初秋 1. ようやく夏の終わりを感じられてきた頃、モモタマナの木に花が咲いた。 大きな木なのに、小指の爪先にも満たない小さな花は、房状につらなり、緑色の葉の合間に白い流星痕を描きだしている。 母から聞いていたとおり、夏休みはあわただしく過ぎていった。宿泊客も多かったし、「弔いの式」や「
前話へ 次話へ 2. 夫の紘平が突然、民宿をおとずれたのは、その週末のことだった。 ちょうど庭で洗濯しおえたシーツを干していると、民宿の前にタクシーがとまった。中から降りてきたのは、白いTシャツに黒いスラックスを着た男性で、やや遠目ではあったが、真那は一瞬でそれが紘平だと確信できた。 「来たよ」 近づいてきた紘平が真那を認識し、声をかける。目が合って、真那の心臓がどきんと跳ねる。シーツを留めないといけな
前話へ 次話へ 第3章 葉を広げる夏 1. 今年も、うだるような暑い季節がやってきた。 モモタマナのチューリップみたいな芽は、あっという間に幅広の大きな葉へと成長し、今では、夏の日差しを立派に受けとめてくれている。 木陰に身をひそめる側からすると、その葉は献身的すぎ
はじめまして。 お越しいただき、ありがとうございます。 自己紹介は苦手なのですが、noteもそろそろまる4年。あんただれやと自分でもよく思うので、ふりかえりのためにもまとめてみました。 2020年からnoteでぽつぽつとエッセイを、2年前から小説を書きはじめました。お読みくださる方々に心より感謝しています。ありがとうございます! 【プロフィール】◎宮崎県生まれ ◎左利き ◎黒猫飼い ◎引っ越し多い (高校卒業後、12回!) ◎趣味 ・読書 今村夏子さん、森絵都さん、
前話へ 次話へ 2. 高齢化の進んだこの町では、日々だれかが亡くなっている。 「お葬式」はたいてい、町にひとつしかない葬儀場か、自宅かで執り行われることが多かった。葬儀場の前の道路に看板が出ると、どこのだれが亡くなったのか、町中にすぐ知れわたっていく。 同様に「泣き男」の存在も、この町ではいつのまにか広く知られるようになっていた。 『泣き女は、どうして《女》だったのか』 こんなタイトルの記事
前話へ 次話へ 9. 父を乗せたワゴンは五時きっかりに、民宿の前に到着した。 母と一緒にむかえに出る。緊張しないわけがない。罵声を浴びる覚悟もできている。もう、逃げるわけにはいかない。真那はこくりと唾をのんだ。 車内から、オレンジ色のポロシャツを着た男性が「ただいま帰りましたー」と、ほがらかな声であいさつしながら降りてきた。 男性にあいさつをかえしたあと、「あれが遠山さんよ」と母が真那に小声で言った
前話へ 次話へ 7. 田上初枝さんの「弔いの式」は予定どおり、正午にはじまった。 広間の前方には、白い布のかかった祭壇がおかれ、その上に田上さんの遺影と白い献花が飾られていた。数本のユリと、ひと束の小菊。決して華美ではなかったが、花の一本一本に存在感があった。 写真に映った田上さんは意志の強そうな目をしていたが、前歯が少し欠けているせいか、どこか憎めな
前話へ 次話へ 門からひょこっとあらわれたのは、よく知っている顔だった。 「え? 真那? 真那なの?」 母は目をみひらくと、え、ええっ? と何度も大きな声をあげた。うすい黄緑色のエプロン。頭にそろいの三角巾をつけたその顔は、しばらく驚いたあと、花のようにほころんだ。 「お母さん、ただいま」 なるべく、何の感情も込めずに言う。ほんとうは泣きつきたかったし、笑いたかった。でもそれ以上に、母の前では淡々とした冷静な自分であ
前話へ 次話へ 真那は、じっと目をこらす。 車道をはさんだ階段に、藍色の服をきた背のたかい男が立っていた。海のほうを見たまま、ぴくりとも動かない。肩まである長い髪だけが、ふわふわと海風にのって揺れている。 こんなところで何をしているのだろうか。釣りではなさそうだし、真冬に海水浴でもないだろう。というか、あんなに薄着で寒くないのか。 変な人だとは思ったが、ここらの住民かもしれない。もしかしたら、道を聞けるかもしれない。真那は気
Mana eva manuṣyāṇāṃ kāraṇaṃ bandha mokṣayoḥ | 人は心。 束縛も、解放も、あなたの心のうちにある。 (サンスクリットのことわざ) 第1章 紅葉の冬 1. 小さな背中をさすりながら、真那は後悔をしていた。 五歳になりたての子どもがはじめて乗るフェリーは、夜行の長距離ではいけなかったのだ。 「きぼち
このたび大変ありがたいことに、 第27回伊豆文学賞、掌編部門にて優秀賞に選んでいただきました。 審査員の先生方、ご準備いただいた関係者の方々に深く御礼申し上げます。 というわけで、授賞式に出席するため、はじめての熱海に行かせていただきました。 熱海駅から会場の起雲閣まで歩いて向かいます。 側溝から湯気が噴きでていて、まさしく温泉街という趣。 坂が多いので、スニーカーで正解でした。 集合の前に昼食をすませておこうと、近くの公園でお弁当のフタをひらいたら、突然、手に持って
子どもの小学校で、インフルエンザB型が大流行している。 息子も先週もれなく発熱したが、結果は陰性だったので、抗インフル薬はもらえなかった。それでも子どもの免疫はたくましく、おとなしく寝ていたら三日で熱が下がり回復。結局、学級閉鎖もあって、先週はまるまる自宅にいたものの、今週は元気よく登校している。 息子の復活を喜んだのもつかの間、次はお前だと言わんばかりに、私の体にウイルスが乗りこんできた。まあ、でも、息子の様子を見ていたら、そこまででもないだろう。コロナやインフルAより
格好からスイッチを入れる、ということは往々にしてあるけれど、いつも狙ったスイッチが押せるとはかぎらない。 つい先日のこと。 雨が降っていたので、ランニングには出かけなかった。代わりになにか体を動かさなければと(コロナ時代に初めて挑戦し、胸骨をいため挫折して以来)ひさびさに、ヨガ用のTシャツとタイツに着がえた。 気合い十分。汗をかく気満々。 お、待てよ。その前にお風呂を沸かしておいたら、汗をかいてもすぐに入れて最高じゃないか。妙案とばかりに浴室へ向かう。 数ある家事のなか