温めのお茶を飲みながら、能楽について考え事をしていました、
それは、ドМでもなくドSでもない、ドNを感じることかな~って、ジ○○ーズやL○Hじゃなくて芸能の祖は観阿弥、世阿弥だよな~って、8ビートで言葉遊びのリリックやったのって世阿弥だよな~って、霊だのお化けだの、または心に住まわる精神的な苦悶を浄める歌劇でもあり、科学的にもセラピー効果が証明されてんだよな~って、・・・グダグダと思考していました、
大阪に在住の、平井クリニックの平井孝男先生の能楽に関する論文がネットから拾えて読めます、「能と心理療法」という題で、カウンセリングと能楽との関連性について書かれています、この手の内容、読めますし、理解ができます、
「求塚」という演目を知りました、内容的にはかなりの悲劇です、しかも悲劇お持ち帰りシリーズです、イケ女に惚れた二人のメンズがいて、メンズを競わせますが、イケ女が命を絶つとメンズ二人も後を追うという・・・、イケ女の心の苦しみのうちで語られたのが、「されば人、一日一夜を経るにだに、八億四千万の思いあり」・・8億4千万の念やら思考・・・昔読んだ何かで聞いた、ひろみ郷・・・、あれは2億4千万か、親鸞聖人の時代、さらに調べると善導大師と出てきた、ここまでは知らなかった、なるほど、
そう、意識だけじゃなく無意識下が大半だったわ、こんな大昔から意識と無意識を認識できていたってことですわな、
映画観るのとは違う、リラックス状態になるのは脳をそちらへ誘うことでHPを回復するのとは違う、緊張感を得て演者そのものを感じる、
能楽師の松野浩行さんやナニワノオトさんや武田文志さんがこまめな配信をされて動画配信の中で時折実演を見せてくれたりしている、忙しい中でこういう活動されてることはリスぺであり応援してる、
修行の中では様々に、言う所の一般社会では体験しなくてもいいような理不尽な教育の過程を経るということがある、ただ振り返った時に、それは愛だったんだなって認識できるかどうかで人間性がまるで違ってくる、物心付かない頃から稽古に励み叱咤されるのは確かに苦痛かと思う、ただ途中でそれが愛だと垣間見えた人は理解しながら生成を続ける、かれこれ昔、渋谷のCLUBで勤めていた際は、頭から灰皿をかけられたり、お茶だと言ってテキーラだったり、理由もなくぶっ飛ばされたり、レモンを丸ごとかじって食えなど、色んなことがあったが、よくよく考えれば、仕事として酔乱舞して理性飛ばしたい理不尽な人間の相手をするわけで、それくらい普通に事故って当然なわけで、免疫を付けてくれてたのかなと、でもあの頃から何となくわかっていたが、それくらいせにゃ尖った所には行けんわと、
虎穴に入らずんば虎子を得ずなもので、銀座の真ん中で勤めていた頃は、朝も夜も24時間を味わった、人を簡単に判断したりしてはいけないということを学ぶ、一度地獄に落ちた人でも這いあがってくることがある、
ただ時を経て思ったのは、人生の大敗北を喫してから生き直しを考え心理学等を勉強しだす中で、自分、自己というID アイデンティティを獲得するに至ること、心理を学習しその意味を自分で咀嚼し再認識していく中で、今だから思うが父だって若い頃は出来た人ではなかったわけで、生まれや何やの縁にしろ出会ってしまったのならそれが現実なわけで、
最近、職場で愚痴や屁理屈ばかり言う後年の方たちに辟易しているという話を聞いて、咄嗟に「自分の人生を退屈なものと決めつけて、自分でそれを選んだ中で、他人に八つ当たるのはやめろ」と言ってしまった、
「おもしろき こともなき世をおもしろく 住みなすものは 心なりけり」
高杉晋作さんである、
そもそも、この世に掟など存在するのであろうか、
友達関係であれ大人になると話がかみ合わなくなる相手もいる、近年日本での離婚率は3組に1組と統計に出てる、
高齢で声が客席まで聞こえない方の謡いや、仕舞の後で立てない方など見かける、50、60はまだまだひよっこのように伝記にはあるが、武士のようにいつ何時火攻めに合うかわからないような生活の中で生きてた人たちとでは、明らかに現代は「違う」、新陳代謝が必要だと十分に理解している中で、どこへ向かい今何をしようとしているのか、多様な性質が認められる現代で、伝えるといっても何が響くかわからない、
ジレンマ、
お茶やお花の先生だからってきちんとした人ばかりでもない、最近ネトフリで「地面師たち」というのを観たが、坊さんも人である、時間にルーズだったり、知ったかで近寄り触れてはいけない面のオモテにべっとり手垢付けたり、学ぶ側もですが、ビジネスで関わるといかんせん面倒なときもある、先生(師)であることと商売で関わった場合との一線が曖昧になったりする人(教え子)もいる、「確かにこれはビジネスですが、でも自分にとっては先生なんで」という優先順位の選択をする人もいる、これって半ば洗脳状態だし、そう依存する本人の甘さを逆手に取る方もどうかと、そんなこんな思考しだすと人って騙し合いをしているのかというようなネガモードに陥る人もいる、
ユング先生は悪について神義とは別の切り口から捉えその問題に解を見出そうとした、おっと急にマジメ路線に、いかんいかん、心というか精神というか、教わることは素晴らしいけど、
自身が知った限りの中でいうと、孤独を楽しみ継続した先に見えるものが美しい、自分自身が本当に納得のいく人生を、自分自身のための努力というのが一番の正解かと、
その時その時で能楽に対する興味関心についての答えは違うのかなと思う、
鎮魂の劇でもあるし、最終その時間を完成させるのは、その人の思考に委ねるものなのかと、よく言われますが、
一体何が言いたいのかがさっぱりわからない、それでいい、
先日、名古屋で能楽イベントに参加した。「邯鄲」について、太鼓と謡いで、身近で観ることができた。能を感じると書いて感能となりますが、そもそも感能って、
能を観るのは敷居が高いとか言いますが、感能レベルでのことをいうのでしょうかね、
太鼓の蒔絵に使用されている蕪かぶの画には、根色(ねのいろ)音(ねがたい)という意味合いが込められてると能楽師さんのお話から知りました、
こうして、現代は生命の記憶や記録を手軽にデジタルで残せるようになった、日々老化する中で活性化させ続けられる部分もある、明らかに一昔前の人との生成様式が違う、
とりとめなき8億4千万には程遠い思考の浅はかさよ、とりとめなき8億4千万には程遠い思考の儚さよ、
「Colorless green ideas sleep furiously 色のない緑の考えが猛然と眠る」提唱者 言語学者ノーム・チョムスキー
能楽の解釈には多様性がありますので、1つの見方として参考になれば幸いです。