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たった、一週間の恋だった

金木犀の香りが、わたしの胸を締め付ける。街角ですれ違う、昔好きだったあの人に似ているような、そんな感じ。金木犀を香るたびに、わたしの記憶のどこかが甘く動く。初恋なんて呼べない、苦い記憶が。



あれはたった、一週間の恋だった。

もう350ミリのビールを片手に夜じゅう散歩するなんてことはなくなってしまった。それでも、わたしは今もあの青い秋を忘れられずにいる。残り香に小さく火をつけて、煙が消えるのをゆっくり待っている。

枯れ葉が重なる音に、わたしたちは恋の心音を重ね合わせていた。地球というゴミ捨て場に捨てられた猫のように、ただひたすら身を寄せ合った。六畳一間の、光の差すことのないちいさな部屋で。

「からだにわるいよ」とわたしの煙草を取り上げながら吸う彼は、年下の大学生。その頃わたしは留年していて、ニートみたいな大人の狭間。成人したばかりの彼を家に呼ぶのはなんだか不道徳な気がしたけれど、それがふたりの秘密のようで嬉しかった。

美しい横顔に、カールのかかった天然パーマ。幼い瞳は純粋すぎて、眩しいくらいにきらめいていた。出会ったきっかけは友達の紹介。2人で飲みに行って、しこたま酔ったわたしを家まで送ってくれたのだった。

彼は幼く、まだ何も知らない子どものようだった。わたしはそんな彼を見つめるのが大好きで、閉じ込めておきたいと何度も切に願った。そして、それは実際に叶ってしまったのだった。



初めて会った日、彼は酔い潰れたわたしを家まで送ってくれた。年上のくせにへべれけになったわたしは、確か鍵が開かない!とわーわー騒いだことを覚えている。2階に住んでいたのに、3階の部屋をガチャガチャ開けようとしていたのだから、そりゃそうだ。今思えば恥ずかしくて顔から火が出る。3階の人、怖かっただろうなあ。

なんとか部屋へ帰って、ランプを灯した。ベッドと本棚、お香と灰皿しかない殺風景な部屋で、彼は片隅に座り込んでいた。

「もっとこっちにおいでよ」

まるでクズな男のようなセリフで、わたしは煙草をくゆらす。彼も黙って煙草に火をつける。パーラメントを吸う、珍しいひとだった。

音楽をひたすらかける静かなベッドの上。コンクリートの壁に向かって開いた窓は、金木犀の香りだけが漂ってきて、外の景色は何も見えない。わたしたちは閉じ込められたワンルームの中で、ただ寄り添った。

口づけは、苦かったと思う。染みるほどの、煙たいキス。それから、手を繋いで眠った。BGMは毛皮のマリーズが歌っていた。



それから、彼は一度だけ家に帰って、ギターと服を取ってきた。それ以外の時間、ずっとわたしとあの部屋に閉じ込められていた。雨がよく降る秋は、ギターの音も濡れて響く。一番好きな歌を弾いてよ、とわたしが言えば、あなたの好きな歌を弾きたいとまっすぐ言うから、わたしはくすぐったくなる。

リクエストしたのはビートルズの「Blackbird」。彼は難しい、とぼやきながらイントロを弾きだす。まるで森の中に置き去りにされたような、ほんの少しの寂しさと自由のメロディーを浴びる。わたしたちはほとんど何も食べずに、ただ音に身を任せつづけた。

そして、天井を見つめながら、何時間でも語り合った。

「最近見た美しいものはなに?」
と聞けば、アイスコーヒーの中で溶けゆく氷のきらめきを教えてくれる。宝石よりもずっと美しい、と彼は笑う。

「好きな季節は?」
と聞けば、あたたかさを知って初めて寒さを知れる冬です、と静かに言う。わたしは秋が好きだよ、金木犀が美しく香るから。「目の前では香りがしない金木犀は、まるで恋みたいですよね」そう相槌を打ってくれるから、このひとに溺れてしまおうと決めてしまう。

好きな形は、形がないもの。好きな場所は、片隅。

そんな風に紡ぎ合わせれば合わせるほど、まるで運命のようだった。わたしたちは同じ星に落ちてきたひとりぼっちとひとりぼっちで、ようやく出会えたんだねなんて笑いあった。

ありきたりな恋だったのだろう、それでもわたしにとっては美しいきらめきの、特別な恋だった。



彼が最後に言ったことを鮮烈に覚えている。「燃える首里城を、美しいと思ってしまったんだ」と悲しそうに語った彼の感性が、美しく愛おしく、歪んでいて。今思えば、あれはきっとわたしに言ったセリフだったのだろう。燃える城、炎上するわたし。簡単に灰になって、一瞬だけの輝きを放って。刹那的なわたしたちの恋もまた、刹那的に終わった。

朝起きれば彼はもういなかった。彼を閉じ込めてから、ちょうど一週間経っていた。

悲しくはなかった。混乱はしたけれど、彼と出会ったのが必然ならば、別れも必然だったから。

わたしたちが閉じ込められたあの部屋は、きっと今もどこか時空の狭間を漂っている。そして、まるで運命みたいなふたりがきっと時を過ごしてる。いつか流れ着く先が銀河ならば、生まれた星に帰れるのなら。わたしたちが出会った意味もきっとあったのだろう。

"恋人"よりも、"恋人"だったあなたへ。

元気にしていてください。それ以外望みはないです。

あんな恋をしたわたしたちは、きっと幸せにはなれない。心の一部をあなたに預けてしまったから。だから、いつか万有引力がふたりを引き合わせる時まで、悲しんでいてください。

そんな、不幸を願える恋をした。金木犀が香る、秋だった。

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