マナーと公共空間と身体と感情の受け渡し
流れてきた動画。
この動画を見たら、マナーってなんだろうと思ったので、少しだけ考えたことをまとめておきます。
マナーという言葉は、通常パブリックな場所で、他者を不快にさせないための、明文化されていないルールのようなものといった意味で使われるだろう。
テーブルマナーとか、館内マナーとか、そんな感じで使われる。
食事の席で、くちゃくちゃ音を立てて食べないとか、フォークをこうやって持つとか、皿は静かに置くとか、である。
いわば、ネガティブな要素を排除する、ノイズを消す、不快感なるだけ減らすといった、「これをしてはいけない」という割と消極的な態度に近い感覚がする。
でも本動画を見て思ったのは、マナーとは本来積極的なものではないだろうかということだ。公的な場所で、自分から働きかけることによって、他者や第三者を少し爽やかな気持ちにさせたり、なんか美しいなと思われたり、自分も真似してみたいと思わされるような行為がマナーの本質ではないか。
感情の受け渡しが、小さくても発生するのが、本当のマナーなんだろうと思った。
電車やバスなどの公共交通には、優先席などといった表記が溢れるようになった。優先席って書いてあるから席を譲ろうと考えるのと、相手を想像して席に座ってもらった方が楽だろうと思って譲るのでは、まったく違う。
つまり、感情が発現すること、動機づけの方向性が重要なのだと考えた次第である。
アリストテレスは、ルール守って犯罪が起きない社会か、他者を傷つけたくないから犯罪が起きない社会のどちらが良いかといったことを書いていた記憶がある。当然、後者である。
レベッカ・ソルニットの「ウォークス 歩くことの精神史」の1章に、公共空間が失われ、私的空間が侵食している現状と、身体を公にさらす機会の減少についてみずみずしい言葉で語っている。アメリカの南カリフォルニアでは、ゲーティッドコミュニティーという柵によって、覆われた住宅地が出てきて、公的空間と断絶しているようだ。
公を私的なものが覆い尽くすと、ますます感情を受け渡しするといった機会は減少するだろう。他者の身体に出会うことで、動く感情のようなものが切り捨てられる。公的なものをどこまで残す必要があるか、公的な空間が経済指標に還元できない価値を、どれくらい持っているかの見積もりの再検討が必要ではないかと思った。