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私は自分ひとりきりのチームで、異星に降り立った。私は「大人」に頼る発想がなく、早く大人になりたい、自身の人生に責任を持ちたいと思っていた。
私は入学前の春休みのオリエンテーションで、高校に1人で行った。小さい頃一緒に遊んだ近所の友達とは別の高校になってしまい、私は誰一人、高校のなかに知り合いがいなかった。私はひとりで異星におりたった。そのオリエンテーションで、学校指定のジャージ注文をし、春休みの宿題を持ち帰った。オリエンテーション自体の内容が分からないだけでなく、ジャージ注文をすること、入学前から宿題が出されること、あらゆることが私の想定外であった。 聾学校のやり方と、一般学校のやり方は何もかもが違っていた。学校
「障害を乗り越えて」なんかいなかった。乗り越えたいとも乗り越えようとも思っていなかったが、みんな私を、おいてけぼりにしていった。
私が聾学校中学部から地域の一般高校に入学したのは、当時珍しいことだった。何しろ、新聞に載ったのだから。いまから20数年前の話である。 聾学校に新聞記者がきて校長室で取材を受けた。同席したのは、担任の先生と校長先生。 校長室のソファに初めて座った。初めての座り心地を堪能する間もなく、取材が始まった。記者が私に何かを言った。口は見ていたが、読み取れずまったく分からなかった。そっと周りを見回したが誰も私に教えてくれる雰囲気はなかった。質問の内容を予想し、回答しはじめた。すると隣
聾学校から一般学校に入って、他者のまなざしを恐怖と感じるようになった。私は自身を守るため、他者を遮断するトイレ個室に避難した。
高校に入って、お昼ご飯はお弁当になった。 入学してすぐの、とりあえず入った女子生徒グループで、机を丸く並べて一緒に弁当を食べた。 当然ながら会話には入れない。ついていけない。入ろうと試みたこともあったが失敗に終わった。 私はそのグループにいながら、1人でご飯を食べているのと同じだった。私はグループの誰よりも一番早く、先に弁当を食べ終えた。そして、頃合いをみて自席に戻った。その頃合いのタイミングはだんだん短くなっていき、最終的には、最初からグループに入らず自席で1人で弁当を食
「原因不明」の腹痛に悩まされながら、私は高い空から私自身の体を見下ろしていた。私は思考を身体から切り離してその場をやり過ごした。
聾学校小学部高学年のとき私は、担任の先生に「屁理屈ばかり言って!」とよく言われていた。私は、その場で思ったことをすぐに言う子であった。何か言われても、私はそれをおなかにいったん納めることができず、すぐに言い返した。弁がたつ子どもであった。 そして私は聾学校を卒業し、一般高校に進学した。 最初の1年間は私は毎日休まずに通ったと思う。欠席したかもしれないが、その記憶はない。私は機械的に登下校をした。私がどういう状況で高校生活を送っているのか、私は誰にも言っていなかった。 高校
困惑と萎縮と恥を一緒くたにした表情に笑顔をのせた母は「迷惑をかけないように」と私に言った。絶対的な母はもう居なかった。
入学前の春休みに、私を受け持つ担任の先生が我が家に来た。これからの高校生活にあたっての「事前相談」だ。50代の男性だった。新聞で取り上げられた輝ける私の「実態」もとい「様子」を見にきたのだ。 その先生は、何か私に話しかけたが私はまったく分からなかった。その様子をみていた母が、その会話をひきとった。 そのとき母は、困ったような悲しいような、それでいて、最低限の社交としての笑顔をふりかけのようにパラパラと顔全体にまぶした顔をしていた。私はその母の表情を初めて見たと思った。 その後