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一般高校時代

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それまで過ごした聾学校から、一般高校(聾学校ではない)に進学したあとの高校時代のNoteをまとめています。 ※マガジン分類は今後変わることがあります
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卒業式で「ようやく解放された」。私は学校でただ一人耳が聞こえなかった。

 吹雪の2月が終わり、日差しがあたたかくなってきていた。雪解けが進み、足跡から路面アスファルトがところどころうっすら見えていた。 この日、私は高校を卒業した。その高校では、自分1人だけが耳が聞こえない生徒だった。自分は、先天性の重度の聴覚障害者で、聴力は左右100dB。補聴器はつけてはいたが、補聴器をつけても音声としては耳に入ってこない。全く聞こえないのと変わらない。 自分は、2歳頃から中学3年生まで、聾学校に通った。聾学校では、幼稚園、小学校、中学校、学校によっては高校

私は自分ひとりきりのチームで、異星に降り立った。私は「大人」に頼る発想がなく、早く大人になりたい、自身の人生に責任を持ちたいと思っていた。

私は入学前の春休みのオリエンテーションで、高校に1人で行った。小さい頃一緒に遊んだ近所の友達とは別の高校になってしまい、私は誰一人、高校のなかに知り合いがいなかった。私はひとりで異星におりたった。そのオリエンテーションで、学校指定のジャージ注文をし、春休みの宿題を持ち帰った。オリエンテーション自体の内容が分からないだけでなく、ジャージ注文をすること、入学前から宿題が出されること、あらゆることが私の想定外であった。 聾学校のやり方と、一般学校のやり方は何もかもが違っていた。学校

「障害を乗り越えて」なんかいなかった。乗り越えたいとも乗り越えようとも思っていなかったが、みんな私を、おいてけぼりにしていった。

私が聾学校中学部から地域の一般高校に入学したのは、当時珍しいことだった。何しろ、新聞に載ったのだから。いまから20数年前の話である。 聾学校に新聞記者がきて校長室で取材を受けた。同席したのは、担任の先生と校長先生。 校長室のソファに初めて座った。初めての座り心地を堪能する間もなく、取材が始まった。記者が私に何かを言った。口は見ていたが、読み取れずまったく分からなかった。そっと周りを見回したが誰も私に教えてくれる雰囲気はなかった。質問の内容を予想し、回答しはじめた。すると隣

頑張っても「聞こえない」。見渡す限りの大海原で、浮かぶのは私一人。助けは来ないと初めからわかっていた。

詳細な人数は覚えていないが、当時私が通っていた高校には約1000人の生徒がいた。その高校に、1人耳が聞こえない生徒が入学した。それが私だ。 自分にとって「頑張って聞く」ことは、「頑張って口を読む」ことだった。耳は、はなからあてにしていなかった。補聴器をつければなにがしかの音は入るものの、音声としては入ってこない。何か音があるな、ぐらいしかわからなかったからだ。 入学して最初に受けた英語の授業を、今でも覚えている。教室内に入ってきた先生は、髪の毛が薄い男性の先生で、お腹がぽ

聾学校から一般学校に入って、他者のまなざしを恐怖と感じるようになった。私は自身を守るため、他者を遮断するトイレ個室に避難した。

高校に入って、お昼ご飯はお弁当になった。 入学してすぐの、とりあえず入った女子生徒グループで、机を丸く並べて一緒に弁当を食べた。 当然ながら会話には入れない。ついていけない。入ろうと試みたこともあったが失敗に終わった。 私はそのグループにいながら、1人でご飯を食べているのと同じだった。私はグループの誰よりも一番早く、先に弁当を食べ終えた。そして、頃合いをみて自席に戻った。その頃合いのタイミングはだんだん短くなっていき、最終的には、最初からグループに入らず自席で1人で弁当を食

「原因不明」の腹痛に悩まされながら、私は高い空から私自身の体を見下ろしていた。私は思考を身体から切り離してその場をやり過ごした。

聾学校小学部高学年のとき私は、担任の先生に「屁理屈ばかり言って!」とよく言われていた。私は、その場で思ったことをすぐに言う子であった。何か言われても、私はそれをおなかにいったん納めることができず、すぐに言い返した。弁がたつ子どもであった。 そして私は聾学校を卒業し、一般高校に進学した。 最初の1年間は私は毎日休まずに通ったと思う。欠席したかもしれないが、その記憶はない。私は機械的に登下校をした。私がどういう状況で高校生活を送っているのか、私は誰にも言っていなかった。 高校

「大丈夫?」と聞かれてすぐに話せるわけじゃない。何気ない会話ができてこそ、話せることがある。聞いてほしいことがある。

一般高校に聴こえない私が入学した頃から、私はよく周囲に「大丈夫?」と声を掛けられるようになった。 私の聴力障害は重度であり、聞き取りはまったくできない。発音も不明瞭。そんな女の子が、一般高校のなかでどうやって学ぶのか周囲の大人たちは、想像もつかず心配にもなったのだろう。 ある日、教育実習の先生がきた。 教育実習の先生は、休み時間にも教室にいて積極的に生徒と会話をしていた。私がいつも一緒に過ごしていた級友とも話をし、私にも「何か授業上で配慮してほしいことはない?」と聞いてきた

困惑と萎縮と恥を一緒くたにした表情に笑顔をのせた母は「迷惑をかけないように」と私に言った。絶対的な母はもう居なかった。

入学前の春休みに、私を受け持つ担任の先生が我が家に来た。これからの高校生活にあたっての「事前相談」だ。50代の男性だった。新聞で取り上げられた輝ける私の「実態」もとい「様子」を見にきたのだ。 その先生は、何か私に話しかけたが私はまったく分からなかった。その様子をみていた母が、その会話をひきとった。 そのとき母は、困ったような悲しいような、それでいて、最低限の社交としての笑顔をふりかけのようにパラパラと顔全体にまぶした顔をしていた。私はその母の表情を初めて見たと思った。 その後

世界は「聴こえる」「聴こえない」では二分できないのだと、私は高校生になって気づいた。私は「みにくいアヒルの子」だった。

聾学校中学部卒業後、私は一般高校に進学した。 自分の住む市では、自分のように一般高校に通う聞こえない高校生の知り合いはいなかった。幼稚部、あるいは小学校低学年までを聾学校で過ごしその後地域の学校に通った子もいたが、それきり会うことはなかった。 他の聞こえない高校生がどのようにして学校生活を送っているのか、私にはまったく情報がなかった。高校に入る前までも、高校に入った後も。 高校1年生の年度を終える頃、一般学校に通う高校生・大学生の団体があることを知り、その集会に参加した。

私は子ども時代、ずっと1人で本の世界を泳いできた。1人で、本の世界を楽しむことが当たり前だと思っていた。

聾学校の図書室は、いつ行っても誰もいなかった。 自分しかいない図書室で、私はゆっくりと図書室内を回りながら本を物色した。6畳ぐらいの広さしかない図書室だったので、あっという間に一回りできてしまう。そこに新刊という概念はなく、そこにある本は何年も変わっていないように思えた。 私はいつも1人でふらっと図書室に寄り、1人で本を物色し、1人で貸し出しカードを書き、1人で読んだ。聾学校からの帰り道、本を読みながら帰った。そして1人きりの図書室で、本を返した。誰とも本の感想を言い合うこ

もっと早く手話と出会っていたら。聾学校は手話からあまりにも遠い世界だった。

今、私は一日のすべてを手話で過ごしている。職場で同僚との会話は手話。家では、夫や子供たちとの話は手話。友達との会話も手話。手話ができない人たちとは、筆談をする。 だが、私は高校を卒業するまで手話ができなかった。聾学校を幼稚部小学部中学部までと13年間過ごしたが、中学卒業の時点で、私が知っている手話といえば、1~10までの数字、「男」「女」「嘘」「でたらめ」くらいしかなかった。 その後入った高校は、聾学校高等部ではなく、一般の高校。聞こえない生徒は私1人。3年後の高校卒業時に

高校生のときクラスメイトから「善意」の手紙をもらった。その手紙で私は社会を「予習」した。

聾学校では、整列はいつも背の順番だった。 背が低かった私は、聾学校時代はずっと、整列で一番前の位置を守った。 幼稚部から中学部までずっと。そのため「前へならえ」で両腕を伸ばす二番目以降の位置に憧れていた。 一般高校に入って、自分よりほんの少しだけ背の低い生徒と同じクラスになった。背の順に並ぶと自分は2番目になった。私は初めて「前へならえ」で両腕を伸ばせてとても嬉しかった。 休み時間など、私は一番前の子と時々過ごすようになった。過ごすといっても、私が「入れてもらった」グルー

聾学校で私たちは「目」をそばだてて先生の話を聞いた。だが、一般高校ではいくら目をそばだてても、聴こえなかった。

聾学校では、手話はタブーだった。 先生方も子どもたちも、保護者たちも、手話をしなかった。時折、休み時間に、子どもたちが何か手話で話しているのを見かけたぐらいだ。 そんなわけだから、当然運動会も卒業式も、口だけで進行された。そこに手話はまったくない。 聾学校では、みんな「わき見」をしなかった。始業式終業式、運動会や卒業式練習では、「目」をそばだてて聞いた。わき見よそ見をして、何かを見過ごした(聞き流してしまった)とすれば、それは本人の「不始末」であった。 先生は、話す前に、誰

耳が聴こえない自分を「耳が悪い」と形容してしまった後味の悪さ。手話を知らなかった自分の生存戦略だった。

一般高校にただ1人、耳が聴こえない生徒が紛れ込んだ「異邦人」としての高校生活も、1年ほどすぎたころ、なんとかコミュニケーションをとれる相手が2,3人できるようになった。私に分かるよう、ゆっくり話してくれる人ができた。また私の話を、何度も聞き返し私の独特の声に慣れてくれる人がでてきた。少しながら休み時間や放課後を、人とのつながりで彩ることができるようになった。 でも、私は、その会話を成り立たせているのは、お互いの共通認識や、文脈、私の発音の出来不出来で会話が成り立つ、非常に危