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自分がつまらない聴者のコピーになっているのではないかとぞっとした。そして聾学校の子どもたちの愛すべき複雑さと豊かさに思い至ったのであった。
聾学校の同級生の一人に、片耳だけ耳介がない子がいた。2歳頃のときから何年も一緒に過ごしたのに、どんな耳の形をしていたか私ははっきりとは思いだせない。ことさらに見る対象でもなかったからだ。耳穴もなかったのではないか。あったとしてもとても小さいものだったろう。 その子は、私たちがするようなイヤーモールドつきの補聴器ではなく、直径4センチほどの黒い円の補聴器をちょうど耳穴があるようなところにあてるように、つけていた。補聴器をかける耳介がないため、カチューシャのように補聴器のベルトを
聾学校の「養訓」は何を勉強する時間なのか分からなかった。道徳や学活と同じような位置づけで私にはそれらの区別はなかった。
聾学校には「養訓(ようくん)」という教科があった。養護訓練の略で、週に3コマくらい入っていたように思う。小学部にあがったとき、時間割は平仮名「ようくん」であり、「こくご」や「さんすう」と同じようにそういう科目があるのだと思っていた。学年があがり、時間割は漢字の「養訓」になっていった。それと前後して、近隣の小学校との交流授業があり、時間割には「養訓」がないことに気付いた。養訓は聾学校だけなんだなと思った。そして、養訓は養護訓練の略だということもどこかで分かっていた。だから一般学
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聾学校高等部にあがれば「手話」が解禁される。それまでタブーだった手話を堂々と使っていいのだ。あまりの変わりように、気持ち悪いと私は思った。
中学部行事として、毎年秋頃に弁論大会があった。テーマには、部活動、家族、自分の聴覚障害などがあった。弁論大会の作文は、自分で家で考えて書いてくる宿題であり、少なくとも私のときは弁論大会の発表原稿を書く時間が授業で取られることはなかった。 弁論大会のテーマは、習字でくろぐろと長い白い紙に書かれ、体育館舞台の壁に、発表順に貼りだされた。審査員は、中学部の先生たちであり、舞台の正面側に椅子を何脚か並べて座っていた。発表者は、体育館舞台下の、舞台に向かって左側で椅子に座り待機していた
自分は「弱かった」自分を語り始めた。屈曲した世界は、屈曲のままに、つぶさに語るしかないのだ。どれだけ言葉を重ねても世界は描けないとしても。
聴覚障害児を持つある母親のSNS投稿数年前、Twitterであるツイートを見かけた。就学前の聴覚障害児をもつ母親からの投稿であった。その投稿は、 聴覚障害をもつ我が子が来年度から小学校に入る。現在は聾学校幼稚部だが、聾学校小学部にそのままあがるべきか、一般小学校に通わせたほうがいいのか。聴覚障害をもつインテグレーション経験者のみなさんの意見をお聞きしたい というようなものであった。 既に何人かの成人聴覚障害者が返信(リプライ)をしていた。そのリプライの多数をしめたのは、一
私は自分ひとりきりのチームで、異星に降り立った。私は「大人」に頼る発想がなく、早く大人になりたい、自身の人生に責任を持ちたいと思っていた。
私は入学前の春休みのオリエンテーションで、高校に1人で行った。小さい頃一緒に遊んだ近所の友達とは別の高校になってしまい、私は誰一人、高校のなかに知り合いがいなかった。私はひとりで異星におりたった。そのオリエンテーションで、学校指定のジャージ注文をし、春休みの宿題を持ち帰った。オリエンテーション自体の内容が分からないだけでなく、ジャージ注文をすること、入学前から宿題が出されること、あらゆることが私の想定外であった。 聾学校のやり方と、一般学校のやり方は何もかもが違っていた。学校
困惑と萎縮と恥を一緒くたにした表情に笑顔をのせた母は「迷惑をかけないように」と私に言った。絶対的な母はもう居なかった。
入学前の春休みに、私を受け持つ担任の先生が我が家に来た。これからの高校生活にあたっての「事前相談」だ。50代の男性だった。新聞で取り上げられた輝ける私の「実態」もとい「様子」を見にきたのだ。 その先生は、何か私に話しかけたが私はまったく分からなかった。その様子をみていた母が、その会話をひきとった。 そのとき母は、困ったような悲しいような、それでいて、最低限の社交としての笑顔をふりかけのようにパラパラと顔全体にまぶした顔をしていた。私はその母の表情を初めて見たと思った。 その後
聾学校から一般高校への「インテグレーション」へ向けて、私は自身の葬列を歩いていた。行く先にある冷たく暗い何かを大いなる楽観で覆い隠そうとしていた。
聾学校など障害児に特化した教育を行う学校ではなく一般学校で、障害児・生徒が教育を受けることは「インテグレーション」あるいは「統合教育」と呼ばれた。当時、インクルーシブという言葉はまだなかった。 今でこそ、聾学校中学部から一般高校に進学する事例は珍しくないが、私が聾学校にいた当時はとても珍しいことであった。 珍しかったのは、大きくは以下2点の理由によるだろう。 第一に、そンテグレーションの時期だ。 インテグレーションするのは、小学校にあがるタイミングあるいは、小学校低学年で
一般高校がたとえ暗いトンネルであっても、聾学校に戻るつもりはなかった。一般高校でも聾学校でも、私にはさして代わり映えしないと思っていた。
聾学校小学部5年生のときだったか、教室にいた私に同級生2人が近づいてきた。2人はにやにやしながら「この手話、何かわかる?」と、手の形を提示してきた。それは五十音のどれかを表しているものだという。 「指文字」というのだそうだ。当時の私には「手真似」も「手話」も「指文字」も区別がつかず同じものであった。同級生が出してきた手を、ためつすがめつ眺めてみた。私は全く分からなかった。あてずっぽうに、「の?」などと答えてみた。 ブー!!違う!!と笑いながら言われた。問題は5問出た。私はその
高校合格の新聞取材で、将来の夢は先生になること、と私は口に上せた。しかし、私は全く先生になるつもりはなく、考えたことすらなかった。
聾学校から高校受験をし、合格した私は新聞取材を校長室で受けた。 新聞記者の問いかけはまったく私には分からず、担任の先生に任せて私は黙っていた。担任の先生はしゃべっていた。時折、水を向けられては、言うべき答えを一足飛びにもらい、それを私は復唱した。 取材の終盤のあたりで「将来の夢は?」と聞かれた。私はその質問を担任の先生から伝えてもらった。 将来の夢?中学生の私は、そういうことを長らく考えたことがなかった。幼稚部の頃は、歌手もしくはアイドルになりたいと思っていたそうだが、いつ
私は、自身の本の世界を聾学校に持ち込まなかった。読書感想文コンクールについても同様で私は、聾学校図書室にあっただけの本について書いた。
聾学校小学部と中学部合同の行事として、毎年、読書感想文コンクールがあった。入選は小学部中学部の生徒全体で、1,2人、佳作は5人ぐらいだったかもしれない。小学部と中学部で、入賞を分ける基準があったのかどうかは分からない。 私は小1、小2のとき、2年間続けて「入選」した。 当たり前だ。母と二人羽織で書いていたのだから。そのことに、私は違和感は持たなかった。その前の聾学校幼稚部時代では、毎日日記を暗唱したが、その文章のベースは、母が書いたものであった。読書感想文を母と一緒に書くこ
聾学校保護者のコラムで構成された文集を私は読んだ。手話がタブーだった時代の聾学校で、聴こえる親、難聴の親、聾の親がコラムを寄せた。
聾学校には、保護者で作る文集があり、年度末の3月に刊行されていた。表紙の色は毎年変わった。大きさはA4サイズくらいだった。 保護者たちは、自身の子どもの微笑ましいエピソードや親自身の気づきなどをコラムに書いた。それは、学校で共に過ごす「ともだち」は家でどんなふうかという意外な一面をかいま見られる、という点で、私は読むのが楽しかった。母親の手によるものがほとんどだったが、父親によって書かれたものもあった。 私の親は、聴こえない妹も含めて、15年以上は聾学校との関わりをもった。