聾学校から一般学校に入って、他者のまなざしを恐怖と感じるようになった。私は自身を守るため、他者を遮断するトイレ個室に避難した。
高校に入って、お昼ご飯はお弁当になった。
入学してすぐの、とりあえず入った女子生徒グループで、机を丸く並べて一緒に弁当を食べた。
当然ながら会話には入れない。ついていけない。入ろうと試みたこともあったが失敗に終わった。
私はそのグループにいながら、1人でご飯を食べているのと同じだった。私はグループの誰よりも一番早く、先に弁当を食べ終えた。そして、頃合いをみて自席に戻った。その頃合いのタイミングはだんだん短くなっていき、最終的には、最初からグループに入らず自席で1人で弁当を食べるようになった。
そのグループの子は、気を遣ったのか、弁当を一緒に食べる?と声をかけてきた。私は、ううんと首をふった。それが数回あり、声はかけられなくなった。私は1人で食べるほうがよかった。
しかしお弁当を食べたあとの昼休みはとても長かった。私はやることがなく時間をもてあましていた。
私は、本を読んで時間をつぶせばよかったのだ。
しかし読書はしなかった。
高校時代は実に多くの本を読んだが、それはすべて、自宅など学校外で読んだものだった。私は教室では本を読まなかった。1冊たりとも。
あのときの自分が、なぜ教室では本を読まなかったのかは分からない。おそらく、本に没入することは、危険なことだと感じていたからではないか。学校では、先読みがひとつのサバイバルスキルで、予測をずっとし続けなければならない場所だった。そのような場所では、自分の視覚は、アイドリングさせておかなければならなかった。
自分の一番確かな感覚である「視覚」を本に預けてしまうことは、とても怖くてできなかった。
かといって、無為に時間をつぶすには、休み時間は長すぎた。話す人が誰もいなかった。あたりは、名前も顔もクラスも知っているけれど、会話はしないできない、そんな不確かなつながりの人ばかりだった。どんなふうに視線をやっていいのか分からない。目が合うことを巧妙に避けながらも、彼らに視線を這わせていた。それでも、顔のない多くの他者から自分に視線が浴びせられていると強く感じるようになった。
他人に視線をやればやるほど、そのまなざしは、痛いほど自分に返ってきた。それは恐怖の対象に変わった。
私はたまらず教室内の無数の目から逃げ出し、廊下に出ることもあった。どこそこへ行きたいというわけではなく、あてどもなく歩きだした。だが、廊下にも人はおり、多くの目にさらされる、まさに「いばらの道」となった。
どこをどう見ればいいのか分からず、見えたものをどう処理すればいいのか分からなかった。溢れる視覚情報を私は受け止めきれなかった。
誰もいない、何もないところへ、行きたいと強く思った。
そんな私は、自分のシェルターをトイレの個室に求めた。避難し、落ち着ける空間は、トイレの個室しか思いつかなかった。
トイレの個室は、他者の存在と他者からの視線を遮断する。私は、トイレの個室に入っている時間が一番落ち着けた。「次」に対する予測のスイッチを切ることができた。何も考えず、何もせず、何も見ずにすんだ。
トイレ個室の白い壁に、安らぎを感じた。時折腕時計で時間を確かめながら、私は息をついた。私はトイレで、色々なことを頭の中で反芻した。もちろんスマホどころか携帯もない時代であった。
その後、休み時間を一緒に過ごす人が現れ、1人1人と増えていった。それに伴い、トイレ避難の習癖は消えていった。
見るものは、あまりにも多すぎた。
校舎は、あまりにも広すぎた。
人は、あまりにも多すぎた。
聾学校の生活様式から、一般学校の生活様式へ。
異なる規範から成る空間の移行で、15歳だった私は狼狽し、混乱していた。
自分チームという1人きりのチームで、自身の始末を考えなければならなかった。
そんなふうにして、私はその混迷の時代をくぐりぬけた。