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私は子ども時代、ずっと1人で本の世界を泳いできた。1人で、本の世界を楽しむことが当たり前だと思っていた。

聾学校の図書室は、いつ行っても誰もいなかった。
自分しかいない図書室で、私はゆっくりと図書室内を回りながら本を物色した。6畳ぐらいの広さしかない図書室だったので、あっという間に一回りできてしまう。そこに新刊という概念はなく、そこにある本は何年も変わっていないように思えた。

私はいつも1人でふらっと図書室に寄り、1人で本を物色し、1人で貸し出しカードを書き、1人で読んだ。聾学校からの帰り道、本を読みながら帰った。そして1人きりの図書室で、本を返した。誰とも本の感想を言い合うことはなかった。親とさえも。図書室の利用は、自分で書いた貸し出しカードをケースに入れておくという無人貸し出しシステムだった。

小学校高学年になると、私は図書室に、もう読む本がないと感じた。何度も繰り返し読んだ本もたくさんあった。図書室は小さく狭かった。
隣の小学校との交流で、ふと図書室をみて、その広さと本数の豊富さに、驚き、かつ羨ましく思った記憶がある。
だが、一般の小学生がどんな本を読んでいるのか、自分が一般の小学生と比較してどういう読書量なのか、という視点は全く持ったことがなかった。市立図書館で借りた本や、自分の小遣いで買った本について、級友との話題にのぼることは全くなかったからだ。しかし、そのことは別段何とも思わなかった。自分がどういう本を読んだか、どんな感想を持ったかを、同世代と共有する経験をほとんど持たないまま、私は一般高校へ進学した。

一般高校での生活は、授業が分からない、誰とも話せない、毎日が同じ繰り返しのように、牢獄のようにも思えた。ただ、高校の図書室にいるときは、まだ前向きな気持ちで過ごすことができた。高校の図書室は、聾学校の何倍ものの広さで、当初私は興奮した。新刊が時々入り、いつも司書がいて、整理整頓された図書室で、本を借りられることが嬉しかった。貸し出しカードに名前を書くのも、聾学校のときより心持ち楽しかった。
毎日のように、昼休みも放課後も通った。毎日本を借り、家で読み切り、翌日返却する日々。帰り道、市立図書館に寄ることもあった。今までの人生で、この期間ほど、早く多く、本の海を泳いだことはない。孤島にいたあの時代は、むしろ本のおかげで、私はあの時代をやり過ごせたのだと思う。

聾学校のときより、読む本のバリエーションも本数も広がったが、読んだ本について感想を交わし合う、相手がいないのは変わらなかった。聾学校のときと同じように、私は1人で本を物色し、1人で本を読み、本を返した。

本を読んでいる間だけ、自分は、泳ぐことができた。本がなければ、泳げなかった。読むために借りるのか、借りるために読むのか、自分でもわからない時期でもあったと思う。時間だけはたくさんあった。

高校2年生、3年生のときに、私は2年間続けて校内の読書感想文コンクールに入賞した。最優秀賞だか優秀賞だか、どっちが2年生か3年生か覚えていないが、賞はとった。

ある日の朝のHRで、突然、拍手が沸き起こり私はびっくりした。みんなが私を見ているような気がした。HRが終わった後で、私は、仲良くしていたクラスメイトに聞いた。
「さっきの拍手何?」
あなたが読書感想文で賞を取ったからその拍手だよ!と教えてくれた。本を読んだ感想を原稿用紙に書き、それが評価され、受賞につながったわけだ。しかし、そのこと自体も、私は周囲とも実感をもった繋がりにはできなかった。受賞について周囲と特に話すこともないままその日はいつものように過ぎた。聾学校を出た後も、変わらず、本の世界に1人きりだった。

あれから20数年。
私の子どもは、小学生になった。
自分が読んだ本を子どもにも読ませたいと思い、その本について、夫と話す。同じ本を、同じ頃に、読んで育ったことを知る。
「あれはみんな読むよね」「あれいいよね、うんあれね。」と同世代の夫婦はうなずきあう。読んで興奮したり、胸を熱くしたりした思い出を共有している。そして、それは子どもとも共有されてゆくのだ。

1人きりで本を読んでいた過去が、家族を結びつけるよすがになろうとは、思いもしなかった。本を読んでいる子どもの頃を思い出すとき、会ったこともない子どもの時代の夫が、今本を読んでいる子どもが、重なって思い出されるようになった。それはじんわりと私の心を温める。

ママもその本を読んでたよ、その人面白いよね、と私は子どもに話しかける。その時、いつの間にか自身も子どもとなって、同じくらいの背丈で我が子に向き合っているような、気がするのだ。

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