「原因不明」の腹痛に悩まされながら、私は高い空から私自身の体を見下ろしていた。私は思考を身体から切り離してその場をやり過ごした。
聾学校小学部高学年のとき私は、担任の先生に「屁理屈ばかり言って!」とよく言われていた。私は、その場で思ったことをすぐに言う子であった。何か言われても、私はそれをおなかにいったん納めることができず、すぐに言い返した。弁がたつ子どもであった。
そして私は聾学校を卒業し、一般高校に進学した。
最初の1年間は私は毎日休まずに通ったと思う。欠席したかもしれないが、その記憶はない。私は機械的に登下校をした。私がどういう状況で高校生活を送っているのか、私は誰にも言っていなかった。
高校2年の夏あたりだったか、そのころから私は腹痛に時々襲われるようになった。平日限定の腹痛であった。朝1,2時間遅刻して登校したり、早退したり、そういうことが何回か続いた。
私自身はその腹痛は、偶発的なものだと捉えていた。片頭痛と同じで、たまたま腹痛が自分は多いのだというぐらいにしか受け止めていなかった。
「ストレス」の可能性は全く考えなかった。ストレスという言葉が今ほど身近ではなかった時代のことである。ストレスという言葉は知ってはいたが、ストレスという言葉さえ思い浮かべもしなかった。ストレスとは、もっとわかりやすい抑圧によって現れるもので、大人の世界にこそよくみられるものだと思っていた。私は未成年で、仕事もまだしていないし、いじめも暴力も受けていない。ストレスは、私とは別世界の言葉だった。私は当時自分が置かれていた環境からの影響を「軽視」していた。
その軽視は、周りの大人たちの考えをなぞったものであった。周囲の大人たちも私自身も、横たわる私を見て見ぬふりした。高く高くのぼった上空から見下ろした私の体は、死体のように微動だにしなかった。
そんな頃、聾学校で教わった先生に、とある場所で再会した。聾学校にいたとき、私の発音の悪さを何度も指摘し「指導」してきた先生だった。私はその先生と会話をしたくなかった。聾学校を卒業して一般高校に入って、私は自分の発音の悪さを二重にも三重にも思い知らされていたからだ。
そのとき私は母と一緒にいた。母とその先生は久しぶりの再会ということで、話が弾んでいた。聾学校では、児童生徒の数が少ないこともあってか、保護者と先生の距離もおしなべて近い。2人のすぐそばで私も立っていた。私は2人を見つめていながら、見つめていなかった。2人は、私を透明人間にしていた。私は2人の会話が一刻でも早く終わり、家に帰れますようにと思った。
そのさなか、母が私を見て、「お腹が痛くなるんだよね」と言ってきた。私は、2人の会話は私の腹痛のことかと思った。私自身のことなのに、私が会話に入れない、私が分からないような形で話題にすることに、かすかな不快感を覚えた。また、腹痛のことは、話題にしないでほしいと思った。だが、腹痛のことについて、違うとも、そうだともいえず、私はあいまいにうなずいた。すると隣にいた先生はこう言った。
「ストレスだね」
そのときの先生の目は、かつての発音テストで、私が「カ」を言えていなかったことを語る目と重なった。
私はかっとなった。
腹痛がストレスだというのなら、それは、私がいま高校でどういう状況にいるのか分かっているということか。
なら、なぜ助けてくれない?
なら、なぜ見ているだけなんだ?
なぜ、そんなに離れたところにいる?
あんたは何をしてくれた?と叫んだ。
だが実際には、叫んでいなかったし、叫ぶどころか、私は何も言わなかった。かつて屁理屈をこねまわしていた女の子は、今や突っ立ったまま、あいまいにうなずくのみだった。私はその場を、声を出さないまま、無事に乗り切った。
それからほどなくして「原因不明」の腹痛は、あらわれなくなった。私は、腹痛で学校を遅刻することも早退することもなくなった。「原因不明」の腹痛は、それが消えた理由も「原因不明」だった。
再び、私は、たわむ空の下を、自転車を漕いで登下校した。