卒業式で「ようやく解放された」。私は学校でただ一人耳が聞こえなかった。
吹雪の2月が終わり、日差しがあたたかくなってきていた。雪解けが進み、足跡から路面アスファルトがところどころうっすら見えていた。
この日、私は高校を卒業した。その高校では、自分1人だけが耳が聞こえない生徒だった。自分は、先天性の重度の聴覚障害者で、聴力は左右100dB。補聴器はつけてはいたが、補聴器をつけても音声としては耳に入ってこない。全く聞こえないのと変わらない。
自分は、2歳頃から中学3年生まで、聾学校に通った。聾学校では、幼稚園、小学校、中学校、学校によっては高校までが一緒になっているので、幼稚部、小学部、中学部、高等部、という言い方をする。聾学校の乳幼児指導から入り、そのまま聾学校幼稚部、小学部、中学部と、ある意味では順当に進み、そして中学部を卒業した。自分は、聾学校高等部に進学せず、地域の一般高校に入学してきたのだった。
卒業式では、あたりを見回すと、泣いている人がいた。だが私はこの時になっても、どこか自分自身の卒業式に参列している実感がなかった。送辞も答辞も、校歌も、私には聞こえていなかった。ただひたすら体育館の舞台に掲げられた校旗を見つめ、時間が過ぎ去るのを待っていた。まるで家にこもって嵐をやり過ごすように。
卒業式だけではない、高校に入学したときから、入学式のときから、ありとあらゆる学校行事や授業、それらすべてが私には聞こえていなかった。まるで自分はガラスケースにいたマネキンのようだった。
卒業式が終わって、教室に戻った。
色々と片付けを終えるとあとは帰るだけだった。周囲では、まだ何人かが泣いていた。
玄関を出ると朝よりだいぶ雪は解けていた。陽光が雪に反射してきらきらしていた。その時、クラスメイトの1人が私に話しかけてきたのだ。私が口を読みやすいように、目を合わせて、文節ごとに区切って、はきはきと。
「長いようで短い3年だったね」
「そうだね」
と私は頷いた。
そして私はすぐに彼女の顔から眼を離し、まぶしい空を無理やり見上げた。
「長いようで短い3年間」というその言葉は、私の目から脳に伝わり、ゆっくり全身にまわっていった。さきほどは、そうだね、と同意したものの、心の中では、違う、と思っていた。私にとって、高校3年間は、とても長かった。長く、まるでトンネルの中を歩いていたような3年間だった。ましてや、泣くほどの思い出も感慨もない。
卒業から20数年経った今でもこの言葉を時々思い出す。今でも、この言葉は、繰り返し、脳から全身へとまわっていき、また脳へ戻っていく作業を体内で繰り返している。
「長いようで短かった3年」だったのか、「短いようで長かった3年」だったのか。
それらの間には、大きな乖離がある。
当然授業はわからない。級友の話にも入れず、挨拶以上の話はしない。何か話しても、自分の聾の声では伝わらない。授業中、どこを見ればいいのかわからず、教室の壁時計を40分ずっと見ていたこともある。
高校を卒業してからも、その後約10年間は、フラッシュバックに襲われ胸が苦しくなり、涙がこぼれてしまうことが時々あった。だが、30歳をすぎ、子どもが生まれ、子育てに追われる日々の中で、高校時代は遠ざかっていった。
ここ数年は、フラッシュバックは出ていない。今後もう出ることはないような気がする。久しぶりに高校時代のことを思い出してみても、心がざわざわしなくなっている自分に気が付いたからだ。高校時代のことを、自分なりに消化できたのかもしれない。記憶が薄れていったということもあるだろう。
逆に、思い出し方が変わった。「もし今の自分があの場にいたら何をしていたか」「あの時どうすべきだったか」という思い出し方である。
なぜ、自分は、国語の授業で、読みたくなかったのに教科書を音読しなければならなかったのか。
なぜ、気が付いたら学校生徒全員がグラウンドに出ていて、自分1人だけ校内に取り残されていたのか。
高校時代のことを思い出すと、必然と、それ以前の聾学校時代(幼稚部・小学部・中学部)までさかのぼって、付随する思い出が手繰り寄せられてくる。
自分の高校時代を振り返りながら、自分自身の整理もかねて、まとめていきたいと思う。