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昭和20年代のてるてる坊主(後編)——お礼・罰・効力アップの工夫をめぐって――【てるてる坊主考note#42】
1、昭和20年代への注目
このところ、昭和20年代のてるてる坊主をめぐって検討を重ねてきました。検討材料としたのは、てるてる坊主研究所でジャンルを問わずに蒐集してきた、てるてる坊主が登場する文献資料です(★詳しくはマガジン「昭和20年代(1946-1954)のてるてる坊主たち」の各記事を参照)。
前々回に検討の切り口としたのは「姿かたち」「目鼻の有無」「文字の有無」といった点、そして前回に検討の切り口としたのは「作る機会」「材料」「設置場所」「呼び名」といった点でした(★詳しくは「昭和20年代のてるてる坊主(前編)——姿かたち・目鼻・文字をめぐって――【てるてる坊主考note#40】」、および「同(中編)——動機・製作・呼び名をめぐって――【同#41】」参照)。
昭和20年代のてるてる坊主をめぐる検討の、とりあえずの最終回となる本稿では、「お礼」「罰」および「効力アップの工夫」といった切り口から検討します。
2、お礼の作法をめぐって
まずは、願いがかなって好天に恵まれた場合の、てるてる坊主へのお礼をめぐって。参考までに、よく知られた童謡「てるてる坊主」では、1番と2番の歌詞で次のように歌われています。
てるてる坊主 てる坊主
あした天気にしておくれ
いつかの夢の空のよに
晴れたら金の鈴あげよ
てるてる坊主 てる坊主
あした天気にしておくれ
わたしの願いを聞いたなら
あまいお酒をたんと飲ましょ
童謡「てるてる坊主」の作詞者は浅原鏡村(1895-1977)、作曲者は中山晋平(1887-1952)。大正10年(1921)に実業之日本社の雑誌『少女の友』に発表されました。願いがかなって晴れたら、「金の鈴」をあげて「あまいお酒」もたくさん飲ませてあげるといいます。
この童謡と同じようなお礼の作法を記しているのが、新潟日報社の雑誌『なかよし』2巻20号(昭和24年)。そこに収められている、なおいあきら(生没年不詳)の「てるてるぼうずのゆめ」と題された童話です。
あやこちゃんは遠足の前日、てるてる坊主を作って茱萸の木の枝に吊るしておきました。一晩たって、遠足当日は好天。あやこちゃんがてるてる坊主にお礼をする場面が次のように綴られています[『なかよし』1949:20頁]。
あやこちゃんは、てるてるぼうずを、赤い小さないすに、かけさせました。
「さあ、てるてるぼうずさん。これ、おかあさまが作ってくださったの。とってもおいしいのよ。」
それは、てるてるぼうずのだいすきな、あまいあまざけでした。
「あやこちゃん。ありがとう。ぼくのだいすきなあまざけ。」
てるてるぼうずは、大よろこびで、こくり、こくりと、そのあまざけをのみました。
……(中略)……
しばらくすると、おへやのとが、すうっとあいて、あやこちゃんのおかあさんが、はいっていらっしゃいました。おかあさんも、うれしそうに、にこにこしていらっしゃいました。
「てるてるぼうずさん。きょうは、ほんとうにありがとうね。これは、いいお天気にしていただいたおれいよ。あけてごらんなさい。」
といって、小さなはこをおだしになりました。
「おばさんありがとう。」
てるてるぼうずは、なんだろうと思いながら、そっと、ふたをあけてみました。
「あっ、すずだ、金のすずだ。」
てるてるぼうずは、思わず手にとってふってみました。
リリンリリンリリン。
「なんていい音なんだろう。おばさん、ほんとにありがとう。」
願いどおりに晴れたお礼に、あやこちゃんとお母さんからてるてる坊主に向けて、甘酒と金の鈴が贈られています。
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3、お礼①(酒)
願いがかなった場合に、てるてる坊主へのお礼として酒をあげる例は、ほかにも3例見られます(★表1参照)。
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1例めは、『こどもとかがく』26号(昭和27年)に収められた、くろいわたくま(1931-)の漫画「てるてるぼうずありがとう」より。絵を見ると、太陽のもとで、てるてる坊主に向けてグラスに入った酒が差し出されています(★後掲の図2参照)[『こどもとかがく』1952:9頁]。グラスの中身は、器に似合うような洋酒なのかもしれません。
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2例めは、社会事業家・高島巌(1898-1976)の『子に詫びる』(昭和28年)より。次のような思い出が記されています[高島1953:5頁]。
子供のとき、運動会や遠足といえば、かならず、てるてる坊主をつくって、祈りをこめて、軒下にかけた。そして、晴れたいいお天気の朝をむかえると、うれしくて、とびはねながら、台所から、二、三滴のお酒をもらってきて、かけてやったものだ。
3例めは、大磯小学校(神奈川県中郡大磯町)の創立八十周年記念事業委員会が編んだ『大磯小学校八十年史』(昭和28年)より。5年生の後藤三知男(生没年不詳)の作文「八十周年記念の運動会」に次のように綴られています[『大磯小学校八十年史』1953:311-312頁]。
待ちに待った運動会がとうとう来た。
家中で僕が一番早く起きた。丁度五時だつた。上天気とは言えないが運動会は出来そうだ。気をもみながら食事をしていたらポンポンと花火がなつた。ぼくは思わずおどり上つた。体中がびりびり電気にかかつたようだ。軒につるしてあるテルテル坊主に用意してあつた盃でお酒をかけてやつた。
(なお、かつて昭和29年の事例として、『現代ユーモア文学全集』第20に収められた小説家・武野藤介(1899-1966)の「てるてる坊主」という作品を紹介したことがあります。そこには、願いをかなえてくれたてるてる坊主を神棚にあげて柏手を打ち、それから台所へ持っていって頭に酒をかけ、それから川に流すという作法が綴られていました[『現代ユーモア文学全集』1954:161頁]。
しかしながらこのたび、この作品が10年前の昭和19年に初出であることが判明しました[武野1944:181-182頁]。そのため、本稿では検討の対象外とします。)
4、お礼②(ごちそう)
願いがかなって晴れた場合に、酒ではなくごちそうをあげるという例もふたつ。
ひとつは、浜田徳太郎(1883-?)と成田潔英(1884-1979)がまとめた『紙すきうた註解』(昭和26年)から。「紙と川柳」の節の「花見と紙」という項で紹介されているのが次の一句[浜田・成田1951:152頁]。
花の翌日紙の帰依僧斎につき
出典は不明ですが、前後の文脈からしておそらく江戸時代の川柳と推測されます。「花の翌日」とは花見の翌日のこと。そして、「紙の帰依僧」、すなわち、紙で作った信仰対象の僧とは、てるてる坊主のこと。「斎」とは日中の食事のことを指します。
花見を前にしててるてる坊主を作ったところ、花見当日は無事に好天に恵まれたのでしょう。そして花見の翌日、てるてる坊主にごちそうを供えている光景が詠まれています。
もうひとつは、地震学者・中村左衛門太郎(1891-1974)の『天気はどう変わるか』(昭和28年)に見られる記述です[中村1953:76-77頁]。
「日曜日の雨はゆっくりしていいが、こう日曜のたびにふられるといやになるな」
と、お父さんがおっしゃいました。
「いくらてるてるぼうずを作ってもだめ、このころはてるてるぼうずなまけてばかりよ」
と、一番に日曜日の雨でこまっているのは、夏子さんです。
「夏子は、てるてるぼうずに、何もやらないんだもの、てるてるぼうずだってなまけるさ」
「お天気にしてくれれば、ごちそうするんだが、こうなまけていては、ごちそうなんかできないわ」
てるてる坊主が願いを聞いてくれたならば、ごちそうをあげるつもりだといいます。しかしながら、てるてる坊主を作ったものの怠けてばかりなのか、現実にはあいにくの雨降りのようです。
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5、お礼③(言葉)
あるいは、願いがかなって晴れた場合に、酒やごちそうをあげるのではなく、お礼の言葉をかける例もふたつ。
ひとつは全生文芸協会が編んだ『癩者の魂』(昭和25年)から。同書はハンセン病療養所の全生園(東京都東村山市)にあった全生学園の生徒たちの作品を集めた作文集です。
てるてる坊主が登場するのは「キヤンプの一日」と題した一文。作者は中等部の生徒で、「孝子」と名前が記されています(同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)[全生文芸協会1950:214-215頁]。
明日はキヤンプだ。……(中略)……夕方になり又曇つて来た。何だか気が気でない。夕方大急ぎでテル〳〵坊主を作つた。私は明日履く下駄に鼻緒をたてた。
……(中略)……
あくる朝、五時十五分前に起きて外に出た。まだあたりは暗い。昨日つるしたテルテル坊主がぬれずにいる。Yさんはまじめくさつてその前に立ち、「テルテル坊主さん、天気にして下さつて有難ふ」といつている。私はふきだした。
ハンセン病療養所で隔離生活を余儀なくされていた子どもたちにとって、キャンプは貴重な外出の機会であり、心待ちにされていたことでしょう。Yさんはてるてる坊主に向かって、ていねいな言葉で感謝の気持ちを伝えています。
もうひとつの事例は中村祥一郎(1910-)の小説『母子つばめ』(昭和28年)に見られます。主人公の美枝子さんは東京から引っ越して、いまは舞鶴(京都府)暮らし。ある日、東京の友だちが修学旅行で関西地方へ来ることになりました。そこで、修学旅行の合間を縫って、京都の街で久しぶりに落ち合おうと約束します。
再会前夜から当日の朝にかけての場面にてるてる坊主が登場します[中村1953:64-65頁]。
土曜日のばん、美枝子はてるてる坊主の人形を二つつくりました。それをのきばたにつるそうと思って窓をあけると、まるで、銀の砂をふりまいたように、星のいっぱい出ている空が見えました。……(中略)……
あくる日の朝、美枝子はいつもより早く目をさましました。六時まえですから、まだ造船所のサイレンもなり出しません。
すぐ起きて、窓をあけてみました。太陽はまだのぼっていませんでしたが、空のいろはいつもよりあかるいようです。
「てるてる坊主さんありがとう。」
美枝子は、人形にお礼をいいました。
6、罰①(首をちょん切る)
次に、願いがかなわなかった場合の、てるてる坊主への罰をめぐって。前掲した童謡「てるてる坊主」には、次のような3番の歌詞があります。
てるてる坊主 てる坊主
あした天気にしておくれ
それでも曇って泣いてたら
そなたの首をチョンと切るぞ
願いがかなわずに曇って雨もようならば、てるてる坊主の首をちょん切ってしまうといいます。この童謡と同様に、罰として首を切るという事例はふたつ見られます(★表2参照)。
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ひとつは、毎日小学生新聞編集部が編んだ『白い風:少年少女作文集』(昭和26年)から。そのなかに収められている「潮干狩」と題する作文にてるてる坊主が登場します。作者は東京都杉並区にある桃井第三小学校4年生の石田哲彦(生没年不詳)[毎日小学生新聞編集部1951:187-188頁]。
雨のためにのびにのびた遠足は、千葉県の幕張海岸です。
ぼくはとびあがるほどうれしかったです。学校へ行ってみると、みんながもう来ていました。中央線にのって中野でのりかえました。電車はまもなく幕張駅につきました。ちょうど、雨がザーザーとはげしくふってきたので、プラット・ホームで、あまやどりしました。ぼくは、もう遠足はだめかと、思いました。窪田君は「家へ帰ったら、てるてるぼうずの首を切っちゃうよ。」と、いいました。
クラスメートの窪田君は遠足を楽しみにしててるてる坊主を作ったのでしょう。しかしながら、遠足の目的地に着いた途端にザーザー降りの大雨。願いがかなわなかったので、窪田君はてるてる坊主の首を切ってしまうそうです。
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もうひとつは、実践国語研究所が編んだ『実践国語』14巻153号(昭和28年)から。国語教育者・中村万三(1913-2003)の「わたしは「ほんとうの作文指導」のねらいをしっかりつかみたい」と題する一文において示されている、作文の一例です[実践国語研究所1953:27頁]。
○あめがふって えんそくにいかれなくてつまらないなあ てるてるぼおずにたのんだのに あめだから てるてるぼおずのくび ちょんぎっちゃったの。(かずま)
遠足を楽しみにしててるてる坊主を作ったのに、雨で遠足は中止。頼りがいのないてるてる坊主は首をちょん切られています(なお、中村万三は翌年、『実践国語』15巻164号に収められた「詩指導の出発」という一文のなかでも、ほぼ同じ例文を挙げています[実践国語研究所1954:51頁]。前掲の表2においては初出である昭和28年の事例のみを表示)。
7、罰②(捨てる)
あるいは、罰として首をちょん切るのではなく、捨てるという事例もふたつ見られます。
ひとつは、二葉書店の雑誌『小学二年』5巻6号(昭和25年)から。漫画家・太田じろう(1923-82)の「てくちゃん(つづきまんが)」にてるてる坊主が登場します(★図5参照)。
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男の子が「あしたてんきになあれ…」と、木にてるてる坊主を吊るしたものの、効果はなく雨。男の子は「やい うそつきぼうずめ」と言いながら、木からてるてる坊主をむしり取り、「きみなんか あてに しないよ」と地面に投げつけています。
もうひとつは、国語学者・石黒修(1899-1980)が監修した『こどものじてん』(昭和29年)から。「すてる」という項を引くと、次のような例文が示されています(★図6参照)[石黒1954:274頁]。
☆だれが すてたか てるてるぼうず、きのうも きょうも あめばかり。
昨日も今日も連日の雨なので、誰かが作ったてるてる坊主が捨てられています。
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8、効力アップの工夫①(文字を書く)
続いては、てるてる坊主のまじないの効き目を高めようとする工夫をめぐって。言うまでもなく、てるてる坊主はほぼもれなく吊るされます。置いたり立てたりするのではなく「吊るす」というのも、そもそもは効力アップの工夫のひとつなのかもしれません。ほかにもてるてる坊主の効力アップを狙って、あの手この手が試みられています(★表3参照)。
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多彩な工夫のなかで、願いを込めて文字を書き込むという作法については、前々回に絵や写真に見られるてるてる坊主を事例として詳しく検討しました。加えて本稿では、絵や写真ではなく文献資料からの事例をひとつ紹介しましょう。それは『天文月報』43巻11号(昭和25年)に収められた「帯広日食行状記」という一文で、著者は作家の富田弘一郎(生没年不詳)[『天文月報』1950:125頁]。
一夜明ければ日食当日。キジヤ台風の影響は何処へやら仲々の上天気である。……(中略)……9時頃から雲行きがあやしくなり、慌ててふだんは余りあてにしない測候所の御宣示を電話できく。溺るる者藁もつかむ、というところだ……(中略)……何とか前線が丁度日食の頃、帯広を通過する予定だとか。大急ぎで大きなテルテル坊主を作り、「晴れたら一升」などと書いて望遠鏡にぶる下げたが霊験あらたかならず、遂に雲の中で日食は始まつてしまつた。
文中にある「キジア台風」は、キジヤ台風とかキジャ台風とも呼ばれ、この年の9月13日に大隅半島(鹿児島県)あたりに上陸、九州から近畿にかけて甚大な被害をもたらしました。そうしたなか、ちょうど日蝕が観測される時間帯に悪天候が予想されるため、大急ぎでてるてる坊主を作ったといいます。
このてるてる坊主に「晴れたら一升」などと文字を書いています。願いどおりに晴天にしてくれたらお礼に酒を1升あげる、という意味でしょう。ごほうびの酒をちらつかせたり、それを文字にして書き込んだりして、てるてる坊主の効力アップを狙う工夫です。
9、効力アップの工夫②(ごほうびの約束)
同じように、願いがかなった場合のごほうびをあらかじめ約束する事例はほかにも散見できます。ごほうびに多いのは、先述のようにお礼として多く用いられていた酒。3例紹介しましょう。
1例めは、洋画家・小糸源太郎(1887-1978)の随筆集『冬の虹』(昭和23年)。「展覧会」と題する一文で、てるてる坊主の風習に触れています。
小糸は岡山で初開催となる日展の責任者を任されていました。展覧会開幕の前日には、特別に観覧者を招く招待日が設けられていました。その招待日の前夜に、翌日の好天を願う光景が次のように綴られています[小糸1948:262頁]。
床に入つてもどうも眠れない。東京の子供はてるてる坊主を作る、紙の坊主頭に千代紙の衣服を着せて樹に下げる、あしたお天気にしてくれゝば、お酒をかけて流してあげますと約束する。私は指先で、枕へてるてる坊主をいくつもいくつも描いてみる。
展覧会への招待日の当日が好天に恵まれるよう強く願う小糸は、子どものころにてるてる坊主に願った気持ちを思い出していたようです。小糸が生まれ育ったのは東京。その東京の子どもたちが作っていたてるてる坊主について思いを巡らせています。もし願いがかなって晴れた場合には、お礼に酒をかけるそうです。さらには、そのあとで川かどこかに流すようです。
2例めは、竹柏会が発行している短歌雑誌『心の花』の55巻10号(昭和26年)に掲載されている、寺江定子(生没年不詳)が詠んだ一首から[『心の花』1951:19頁]。
そぼぬるるてるてるばうず所在なくば来てよひそかに酒のまさうぞ
てるてる坊主を吊るしたものの、天気は雨。濡れたてるてる坊主はいかにも所在なさげです。そんなてるてる坊主に向けて、もし良かったらこっそりこっちに来て酒でも吞まないかと呼びかけています。
3例めは、日本童詩教育連盟が編んだ『詩の国』45号(昭和27年)より。そこに収められている「行けなかつた奈良」という作文にてるてる坊主が登場します。作者は京都市新洞小学校4年生の山田圭吾(生没年不詳)。経済的な事情で遠足に行くことができない男の子の、複雑な胸のうちが綴られています[日本童詩教育連盟1952:5頁]。
僕は遠足にいかれへんのに「てるてるぼうずてるぼうず、あした天気にしておくれ、そしたら、あまざけほんまにのましてやるからな!」
いや、僕は遠足に行かれない、そう思うとてるてるぼうず、あした雨にしておくれと、いえてきた。
朝起きて見ると雨あがりでしーんとしていた。
こちらの場合は、酒は酒でも子どもらしく、もし晴れたら甘酒をあげるといいます。
あるいは、ごほうびが酒ではない例もひとつ。日本童話会が編んだ『幼児に聞かせるおはなし百選』(昭和27年)所収の「てるてるぼうず」という童話です(★後掲の図7参照)。作者は増田浩子(生没年不詳)。幼稚園の遠足に来たものの、弁当を食べている最中に雨が降ってきてしまった場面です[日本童話会1952:81頁]。
てるてるぼうずを、そばの木の枝にかけました。
ぶらん、ぶらん
てるてるぼうずは、パラパラ雨にあたって、ぶらんこしてますよ。
みんなは、これを見て、
「てるてるぼうず、てるぼうず、
すうぐに、天気にしておくれ。」
と、うたいました。
ふざけんぼうのてるおちゃんは、
「はれたら、キャラメル一こあげよ。」
と、うたったので、みんな笑いだしました。
もし晴れたらキャラメルをあげるといいます。先ほどの甘酒しかり、てるてる坊主は甘いものが好みのようです。
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10、効力アップの工夫③(大きさ・数)
前掲した日蝕の記事のなかで、「晴れたら一升」などと書いてぶら下げられたのは「大きなテルテル坊主」だったといいます。同じように、てるてる坊主のボリュームを大きくする例は、絵のある資料にも散見できます(★図8参照)。
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このほか、大きなてるてる坊主は絵のない文献資料にも3例登場します。1例めは、児童文学作家・奈街三郎(1907-78)らが編んだ『童話三百六十五日』(昭和25年)に見られます。そのなかに収められた小説家・野上弥生子(1885-1985)の「梅雨のころ」と題する作品です[奈街ほか1950:173頁]。
幼稚園では、みんなして大きなてるてる坊主をこしらえて、まどの前のサクラの木につるしました。お天気になりしだい、植物園へ、遠足にいくことになっているのでした。
2例めは、石炭の生産にまつわるお話。『九州石炭鉱業協会月報』23号(昭和25年)に「九州管内電力用炭に就て」と題する一文が寄せられています。著者は「日本発送電株式会社九州支店石炭課長」の肩書をもつ藤沢隆(生没年不詳)。冒頭にあるのが次のような記述です[『九州石炭鉱業協会月報』1950:9頁]。
当社石炭事務所にも炭鉱業者、石炭販売業者の方々が屡々お見えになるようになったが色んな話の末異口同音に漏らされるのは、
「一つ筑豊炭田のド真ん中にでっかいテルテルボーズの銅像でも建てますかな」
と言う言葉である。
テルテルボーズの銅像を建てれば日照りが続くであろう、日照りが続けば水力電気が不足するであろう。水力電気が不足すれば火力発電をヂャン〳〵やるであろう。火力発電をヂャン〳〵やれば電力用炭が売れるであろう。
筑豊炭田とはかつて福岡県にあった大規模な石炭産地。てるてる坊主を作って日照り続きにすることで水力発電を不足させ、まわりめぐって火力発電に用いる炭の需要を増やそう。そんな目論見を、炭鉱業者や石炭販売業者たちが冗談として交わされている光景です。
3例めも電力に関連して、信友社の雑誌『弁論』59号(昭和28年)から。コラム「阿呆駄羅経」に掲載されている、「てるてる坊主禁止」と題された小咄です[『弁論』1953:120頁]。
○こう雨が降つては又出水で大困りだが一つ大きなてるてる坊主でも造るかな。
△そんな事しようものなら、私の商売がなり立ちません。といふのを誰かと見れば電燈会社。
このようにてるてる坊主の大きさにものを言わせようとする例のほか、てるてる坊主をいくつも作って、数にものを言わせようとする例も多く見られます(★図9参照)。
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11、効力アップの工夫④(そのほか)
てるてる坊主の効き目をアップさせようよする工夫は、ほかにも多彩です。最後にあと3例紹介します。
1例めはビールをかける事例。詩人・森英介(1917-51)の詩集『火の聖女:地獄の歌』(昭和26年)に収められている、「童子」と題された詩の一節です[森1951:72-73頁]。
お雨さん
お雨さん
テルテル坊主おいたのに
あゝ なぜ降るの
靴の中、机にもテルテル坊主のお呪ひ
麦酒の泡をふりかけて
枕のそばにおいたのに お雨さん
なぜ降るの
遠足の
朝の 窓の 雨
遠足を前にしててるてる坊主を作り、その「お呪ひ」の効果を上げるべく、ビールの泡を振りかけています。
2例目めは祭壇に祀る事例。句集『ゆく春』23号(昭和25年)に、半田只穂(生没年不詳)が詠んだ次のような俳句が寄せられています[『ゆく春』1950:32頁]。
照々坊主も悲し無月の祭壇に
おそらく、月見を前にして空が晴れるように、てるてる坊主を作って願ったのでしょう。月に供え物をするために祭壇を設えており、そこにてるてる坊主も祀られていたようです。しかし残念ながら曇り空で月は見えず、祭壇のてるてる坊主も悲しそうにしている様子が詠われています。
3例めはてるてる坊主を縛り上げることに触れている事例。それは、作家・小泉八雲(1850-1904)の童話を集めた『日本童話小説文庫 耳なし芳一』(昭和25年)の巻末に収められた、英文学者・山宮允(1890-1967)による解説文「小泉八雲の作品」。小泉八雲の「乙吉のだるま」という作品を解説したなかで、だるまの信仰とともにてるてる坊主についても触れています(傍点は原文のママ)[小泉1950:34頁]。
雨ふりが続く時、晴天を願いもとめて、てるてる坊主をしばり上げる信仰があるように、何かの利益をもとめて、眼のないだるまを用意して、その利益があった時に、はじめてそのだるまに眼をいれるという信仰は、関東地方にもないことはない。
これまで3回にわたって、昭和20年代のてるてる坊主に注目して、その特徴を浮き彫りにしてきました。引き続き、これに先立つ昭和元年から20年ごろにかけてのてるてる坊主も気になるところ。また、稿をあらためて検討できればと思います。
参考文献(年ごとに編著者名や書名等の五十音順。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。)
【昭和23年(1948)】
・小糸源太郎『冬の虹:随筆集』、朝日新聞社(「展覧会」)
【昭和24年(1949)】
・『少女世界』2(1)、富国出版社、1949年(西塔子郎「てるてるぼうず」)
・『なかよし』2(20)3・4年、新潟日報社(なおいあきら〔作〕つかごしひさを〔絵〕「どうわ てるてるぼうずのゆめ」)
【昭和25年(1950)】
・『九州石炭鉱業協会月報』23、九州石炭鉱業協会(藤沢隆「九州管内電力用炭に就て」)
・小泉八雲『日本童話小説文庫 耳なし芳一』、小峰書店(山宮允「小泉八雲の作品」)
・『小学二年』5(6)、二葉書店(太田じろう「てくちゃん(つづきまんが)」)
・全生文芸協会〔編〕『癩者の魂』、白鳳書院(孝子「キヤンプの一日」)
・『天文月報』43(11)、日本天文学会(富田弘一郎「帯広日食行状記」)
・奈街三郎ほか〔編〕『童話三百六十五日』、トッパン(野上弥生子「梅雨のころ」)
・『ゆく春』23(3/4)、ゆく春発行所(半田只穂)
【昭和26年(1951)】
・『心の花』55(10)、竹柏会(寺江定子)
・『なかよし』4(39)2年、新潟日報社(おおぎすいよし「てるてる坊主(ぼーず)」)
・浜田徳太郎・成田潔英〔共編〕『紙すきうた註解』、製紙記念館(「紙と川柳」)
・毎日小学生新聞編集部〔編〕『白い風:少年少女作文集』、あかね書房(石田哲彦「潮干狩」)
・森英介『火の聖女:地獄の歌』、火の会(「童子」)
・『よいこ』2(2)二年生、集英社(さわいいちさぶろう「てるてるぼうずのゆめ」)
【昭和27年(1952)】
・『こどもクラブ』8(7)、大日本雄弁会講談社(鈴木寿雄「てるてるぼうず」)
・『こどもとかがく』26(8月号)、明和書院(くろいわたくま「てるてるぼうずありがとう」)
・日本童詩教育連盟〔編〕『詩の国』45、東門書房(山田圭吾「いかなかつた奈良(作文) 」)
・日本童話会〔編〕『幼児に聞かせるおはなし百選』、小峰書店(増田浩子「てるてるぼうず」)
【昭和28年(1953)】
・『大磯小学校八十年史:大磯小学校創立八十周年記念』、大磯小学校創立八十周年記念事業委員会(後藤三知男「八十周年記念の運動会」)
・実践国語研究所〔編〕『実践国語』14(153)、穂波出版社(中村万三「わたしは「ほんとうの作文指導」のねらいをしっかりつかみたい」)
・高島巌『子に詑びる』、東経済新報社(「はじめに」)
・竹山恒寿『心の科学』、白揚社(「おまじない」)
・中村左衛門太郎『天気はどう変わるか』、恒星社厚生閣
・中村祥一郎『母子つばめ』、鶴書房(「てるてる坊主」)
・『弁論』59、信友社(「てるてる坊主禁止」)
・増田松樹『家庭写真十二ケ月』、玄光社(「雨の日の写し方」)
【昭和29年(1954)】
・石黒修〔監修〕『こどものじてん』、東雲堂(「すてる」「てるてるぼうず」)
・『現代ユーモア文学全集』第20 (コント名作集)、駿河台書房(武野藤介「てるてる坊主」)
・実践国語研究所〔編〕『実践国語』15(164)、穂波出版社(中村万三「詩指導の出発――小学校低学年」)
・『小学館の幼稚園』7(3)、小学館(藤田桜「てるてるぼうず」)
・『幼稚園ブック』6(6)、学習研究社(林義雄「てるてるぼうず」)
【そのほか】
・武野藤介『妻と子供たち』、新元社、1944年(「てるてる坊主」)
#雨の日をたのしく