続・中国史のなかの掃晴娘 【てるてる坊主考note #8】
はじめに
てるてる坊主と似た風習として、日本で紹介されることがある中国の掃晴娘。その実態に迫るべく、かつて、中国の文献に見られる掃晴娘についての記述を整理しました(★「中国史のなかの掃晴娘 【てるてる坊主考note #4】」参照)。対象としたのは、当時の私の管見が及んでいた、13世紀終わりごろから20世紀初めにかけての中国の文献6点です。
その後、中国文学者である沢田瑞穂(1912-2002)の著書『中国の呪法』のなかに、掃晴娘をめぐってさらに多くの事例が紹介されていることを知りました。同書には「掃晴娘のことなど」という節が設けられており、中国の文献に見られる掃晴娘について、たいへん幅広い目配りの成果が提示されています。
私がかつて紹介した、清の時代の『陔餘叢考』(1790年)や『燕京歳時記』(1909年)のほか、私の管見の及んでいなかった6点が新たに紹介されています(★下記の表1と表2参照)。その6点が対象としている地域はさまざまですが、発行時期は19世紀後期から20世紀前期にかけてのあいだに集中しています。清の時代のものが3点、中華民国の時代のものが3点です。
清の時代の3点は『越諺』(1882年)『成都通覧』(1909年)『燕塵』(1910年)、中華民国の時代の3点は『中華全国風俗志』(1923年)『蘇州風俗』(1928年)『礼俗』(1931年)です。本稿ではこの6点について、沢田の読み下し文や解釈を手がかりに、原典も参照しながら、年代順に紹介します。
1、清の時代の3冊
1-1、『越諺』(1882年)
『越諺』は言語学者の范寅(1827-1897)が編んだ書物で、清の時代の後期、光緒8年(1882)に谷応山房から発行されました(表の№⑤と⑤´)。「越」とも呼ばれる浙江省のうち、現在の紹興市あたりの言語や風習、名物などについて紹介しています。全3巻のうち中巻に「神祇」や「疾病」と並んで「鬼怪」という節があり、そのなかに「紙寱姑娘」および「倒貼和尚」という項があって、以下のように記されています[范1882:19丁オモテ]。
前者の「紙寱姑娘」については、その説明を沢田瑞穂は先述の『中国の呪法』のなかで次のように読み下しています。「童女が晴を求むるに紙を剪りて箕箒となし、人が指を刺して血塗りす」。作り手が自らの指を刺してその血を人形に塗るというのは、少々驚きですが、この点について沢田は「人血を塗るのは、この人形に霊あらしめる作法であろう」と解説しています。血は日本では赤不浄とも称されて穢れた存在と見なされ、聖なるものの前から忌み遠ざけられる場合が多いのと対照的です。
「紙寱姑娘」の「寱」という字は、日本語の読みは「げい」、戯言や譫言といった意味があります。「姑娘」という文字が付いているので、人形は女性の姿をしているようです。
後者の「倒貼和尚」については、その説明を沢田は次のように読み下しています。「また剪りて晴を求め、童戯となす」。そして、沢田は「倒貼和尚」という呼び名に注目して、「紙製人形を逆さに貼ったのであろうが、「和尚」と称するところをみると、頭に髪のない丸坊主だったのではあるまいか」と推測したうえで、「倒貼和尚」は「わがテルテル坊主と同趣向の坊主頭だったらしい」と指摘しています[沢田1990:443、445頁]。
1-2、『成都通覧』(1909年)
『成都通覧』は傅崇榘(1875-1917)が編んだ書物で、清の時代の終わりごろ、宣統元年(1909)に通俗報社から発行されました(表の№⑦)。成都(現在の四川省成都市)の生活文化や風習などについて紹介しています。全8冊のうち第4冊に「成都之迷信」という記事(目次では「十二個月之迷信」)があり、「掃天婆」について以下のように記されています(「婆」という字は、原本では正しくは上部が「浦」で下部が「女」)[傳1909:通巻233丁ウラ]。
上記の「掃天婆」の項について、本文を沢田は以下のように読み下して紹介しています[沢田1990:443-444頁]。
長雨の際に晴天を祈るのに、「好事の婦」が「掃天婆」という「女孩」の人形を作ることが記されています。「好事の婦」とは、よく言えば風流な女性、少し悪く言えば物好きな女性といったところでしょうか。
「女孩」とは女の子のことです。女の子の姿をした人形でありながら、名前は「掃天婆」と呼ばれています。手にする道具が箒と箕であるのは、先述した『越諺』の「紙寱姑娘」(⑤)と同じ取り合わせです。「掃天婆」は軒から外へ差し出した竿の先に掛けられます。
作り手の女性をめぐっては、たいへん興味深いことに、女の子を育てたことがない婦人でなければ効果はないと記されています。裏を返せば、母から娘へと、女性のもつ不思議な呪力とともに受け継がれていく風習として、「掃天婆」を捉えることが可能でしょうか。
1-3、『燕塵』(1910年)
『燕塵』は清の時代の終わりごろ、光緒34年(1908)から刊行が始まった月刊誌です(表の№⑧)。発行元は燕京とも呼ばれた北京にある燕塵会。燕塵会は当地の日本人サークルで、雑誌『燕塵』の記事は日本語で書かれています。刊行当初、裏表紙をめくった裏側に「燕塵発行の趣旨」が記されており、「北京に於ける出来事は勿論是れに関係する事々物々」を対象とすることが表明されています[想亭誤仙1908]。
『燕塵』第2年第11号(1909年11月号。通巻23号)から第3年第3号(1910年3月号。通巻27号)にかけて、「清国の迷信」が5回連載されています。著者は天保仙(ペンネーム。生没年不詳)。そのなかで、連載4回目の第3年第2号(1910年2月号。通巻26号)に、晴天祈願の人形について記されています[天保仙1910:17-18頁]。
「農民」が夏の日におこなう風習であることが明記されています。人形の呼び名は記されていません。先述した『成都通覧』の「掃天婆」は長雨の際に作られますが、こちらは「大雨」に際して作られます。問題とされているのは降雨の長短ではなく、大小すなわち強弱です。
「紙製の糊人形」がどのような姿をしているのか、具体的にはわかりませんが、紙を糊で固めたつくりでしょうか。効果があった場合には「焼棄する」そうなので、手近な材料で簡単に作られたものと推測されます。
腹部に「求晴」と願いの内容を書き込むのが特徴的です。「縄に結び付け、庭にて風に吹かせ」とあるので、どうやら宙ぶらりんに吊り下げるようです。庭で「糊人形」を風にあてたあとで「龍王に禱告せば雨霽るる」とのことで、雨をコントロールする力を持っているのは龍王であり、「糊人形」にはその龍王と作り手とのあいだを取り持つ役目が期待されているようです。
2、中華民国の時代の3冊
2-1、『中華全国風俗志』(1923年)
『中華全国風俗志』は訓詁学者の胡樸安(1878-1947)が編んだ書物で、民国12年(1923)に発行されました(表の№⑩)。全20巻からなり、全国各地の風習が紹介されています。下篇巻3の「江蘇」の部に「呉県之掃晴娘」と題して、呉県(現在の江蘇省蘇州市呉中区および相城区)の風習である「掃晴娘」について記されています[胡1923:71頁]。
上記の文について、沢田は以下のように紹介しています[沢田1990:444頁]。
「掃晴娘」はやはり長雨に際して、紙を切って女の子の姿かたちに作られます。手に持たせるのは箒のみで、箕は持たせません。糸を通して廊下あるいは庇に掛けられます。そして、効果があった場合には、『燕塵』の「糊人形」(⑧)と同様に焼かれます。
注目されるのは、先述した『越諺』の「倒貼和尚」(⑤´)と同様に、願いを掛けられる際に逆さまにされる点です。この点をめぐって、沢田は以下のように指摘しています[沢田1990:445頁]。
2-2、『蘇州風俗』(1928年)
『蘇州風俗』は周振鶴(生没年不詳)が著した書物です(表の№⑪)。国立中山大学語言歴史研究所(広東省)の「民俗学会叢書」シリーズの1冊として民国17年(1928)に発行されました。「(七)瑣記」のなかの44項目めにおいて、先述の『中華全国風俗志』の例と同じく蘇州(現在の江蘇省蘇州市)の風習として、「掃晴娘」について簡単に触れられています[周1970:85頁]。
上記について、沢田は以下のように読み下して紹介しています[沢田1990:444頁]。
「久雨に遇う」という言い回しは、先述の『成都通覧』(⑦)や『中華全国風俗志』(⑩)にも見られた常套句です。「閨人」とは女性や婦人のことを指します。長雨に悩まされているとき、女性たちは「掃晴娘」を作って願うということが記されています。
2-3、『礼俗』(1931年)
『礼俗』は国立北平師範大学研究所で編まれた雑誌で、半月に1回のペースで発行されました(表の№⑫。沢田が『中国の呪法』のなかで『礼俗』の発行元を「北京師範大学」と紹介しているのは誤り)。
民国20年(1931)6月に発行された『礼俗』第5期に、陳文軒(生没年不詳)の「祈雨和祈晴 河南滎陽」が掲載されており、滎陽地方(河南省鄭州市)の風習が報告されています。そのなかで、祈晴の方法の1つである「掃天娘娘」について、以下のように記されています(引用文中の4文字目の「綁」という字は、原文では正しくは糸へんに「帮」)[陳1931:15頁]。
上記の文を沢田は以下のように紹介しています[沢田1990:446頁]。
「掃天娘娘」という呼び名の語尾の「娘娘」とは女神の敬称であると説明されています。そのうえで、沢田は「掃天娘娘」をめぐって次のように指摘しています。「娘娘と敬称し、しかも神仏に縁のある黄衣を着せるから、ただの玩具ではなく、晴天をもたらす女神と考えたことを示している」。
ここで注目されるのは「掃天娘娘」の位置づけです。先述した『燕塵』に登場する「糊人形」(⑧)は、雨をコントロールする力を持つ龍王と作り手(「農民」)とのあいだを取り持つ役割を担っていました。それに対して、「掃天娘娘」は「晴天をもたらす女神」そのものと位置づけられています。
「掃天娘娘」の材料はコウリャン(高粱)のわらしべ、すなわち茎の芯の部分。コウリャンはタカキビあるいはモロコシとも呼ばれるイネ科の穀物です。コウリャンのわらしべでできた「掃天娘娘」は、いわゆる藁人形のような姿かたちでしょうか。その小さな人形に、黄色い紙を切って作った衣を着せ、豆の茎で作った髪飾りをつけます。
女神である「掃天娘娘」を木に縄で括りつけ、作り手は晴天祈願の文句を唱えます。「掃天娘娘掃晴天」という文句のリズムはわかりませんが、「てるてる坊主、てる坊主」というフレーズに近いように想像されます。効果的な作り手は一人娘か一人息子に限られるとのことで、一人っ子政策(1979-2014年)以前の中国においてそれは稀な存在だったことでしょう。
おわりに
本稿では、沢田瑞穂『中国の呪法』に導かれて、掃晴娘が登場する文献6点に注目しました。年代としては、19世紀後期から20世紀前期にかけて発行されたものです。
掃晴娘の実態をめぐっては、冒頭で触れたとおり、かつて一度整理を試みたことがあります。その際には、当時の私の管見が及んでいた、13世紀終わりごろから20世紀初めにかけての文献6点を手がかりにしました。そこで得られた知見に沿うものが今回も見られたいっぽうで、先には見られなかった目新しい事例も散見されました。
今回新たに見られた点をいくつか拾ってみます。たとえば、掃晴娘の呼び名をめぐって。かつて私は、掃晴娘の呼び名は17世紀ごろまでは一定していないが、その後は「掃晴娘」に一本化されたと見られると指摘しました。しかし、それは数少ない資料にもとづく誤った見解だったようです。今回紹介したとおり、19世紀以降も「紙寱姑娘」(⑤)「倒貼和尚」(⑤´)「掃天婆」(⑦)「掃天娘娘」(⑫)といった具合に、実に多彩な呼び名が見られます。
あるいは、その姿かたちに注目してみると、『礼俗』(1931年)に記された「掃天娘娘」(⑫)は、紙ではなくコウリャンのわらしべで作られ、頭には豆の茎で作った髪飾りをつけています。設置方法も独特で、縄で木に括りつけられます。ほかにも、特徴的な設置方法としては、逆さ向きにされて貼られたり(⑤´)掛けられたり(⑩)といった事例が散見されます。
また、『越諺』(1882年)には、作り手の「童女」が自らの指を刺し、その血を「紙寱姑娘」に塗る(⑤)と記されています。『燕塵』(1910年)に記された「紙製の糊人形」(⑧)には、腹部に「求晴」と文字で願いが書き込まれました。
作り手をめぐっては、「いまだ女を生有てざる婦人」(⑦)あるいは「独り娘か独り息子」(⑫)でなければ効果なしと断言している事例も見られます。そして、願いがかなった場合には、掃晴娘を「焼棄する」(⑧)「焚く」(⑩)といった作法が見られたようです。
中国の掃晴娘について、かつて紹介した6点と今回紹介した6点を併せ、その属性を年代的に整理することで、変わった部分と変わらない部分を明らかにする作業には、また機会をあらためて手を染めたいと思います。そのうえで、日本のてるてる坊主との比較検討を重ねることで、てるてる坊主と掃晴娘の関係を徐々に明らかにしていけるのではないかと展望しています。
参考文献(日本語読みでの五十音順)
・胡樸安〔編〕 『中華全国風俗志』下篇巻3、上海書店、1986年(初版は广益書局、1923年)
・沢田瑞穂 『修訂 中国の呪法』、平河出版社、1990年(初版は1984年)
・周振鶴〔著〕婁子匡〔編〕 『蘇州風俗』(中山大学民俗叢書14)、東方文化供応社、1970年(初版は編者なし、民俗学会叢書、国立中山大学語言歴史研究所、1928年)
・想亭誤仙 「天下同好に告」(『燕塵』第1年第1号、燕塵会、1908年)
・陳文軒 「祈雨和祈晴 河南滎陽」(『礼俗』第5期、国立北平師範大学研究所、1931年)
・傳崇榘 『成都通覧』第4冊、通俗報社、1909年
・天保仙 「清国の迷信(つゞき)」(『燕塵』第3年第2号、燕塵会、1910年)
・范寅 『越諺』、谷応山房、1882年