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昭和21年~24年のてるてる坊主【てるてるmemo#29】



はじめに

 前回まで、昭和20年代後半のてるてる坊主について、29年から25年まで1年ごとにさかのぼりつつ、その特徴の分析をしてきました(★詳しくはマガジン「昭和20年代(1945-54)のてるてる坊主たち」の各記事を参照)。

 引き続いて、本稿では昭和20年代の前半、具体的には21~24年(1946-49)のてるてる坊主に注目します。かつて分析した昭和30年代のてるてる坊主の傾向とも比較しながら検討を進めていきましょう。
 検討の材料とするのは、てるてる坊主研究所でジャンルを問わずに蒐集してきた文献資料。この時期は終戦直後ということもあってか、昭和20年代後半や30年代と比べて、事例数が限られます(なお、20年(1945)については、1例のみ、てるてる坊主に触れた資料があります。その1例は終戦の日(8月15日)より前に発行された文献資料なので、また機会をあらためて、昭和10年代の資料を分析する際に紹介できればと思います)。
 まず注目したいのは絵のある資料。昭和21~24年には13例を数えます(★後掲の「昭和20年代前半(1945-49年)のてるてる坊主【てるてる坊主図録Ver.5.1】」、および、表1参照)。
 なお、資料①(21年)と③(22年)の今回新たに蒐集できた資料です(★図1参照)。

1、姿かたち(着物姿とスカート姿)

 絵のある資料13例をめぐって検討の切り口としたいのは、てるてる坊主の「姿かたち」「目鼻の有無」「文字の有無」の3点です。
 第一に姿かたちをめぐって。昭和20年代から30年代のてるてる坊主の姿かたちに注目すると、昨今のように裾をひらひらとさせたスカート姿のもののほかに、着物姿のものが見られます。着物姿のものは着物を着ていて、ときには帯まで締めています。
 スカート姿のものと着物姿のものの事例数を比較してみると、昭和30年代に優勢だったのはスカート姿(★後掲の表2参照)。しかしながら、それに先立つ昭和20年代の後半に目を向けてみると、26年から29年にかけては着物姿がやや優勢。25年だけがめずらしくスカート姿優勢でした。

 そして、昭和20年代前半には21年から24年までを合わせると着物姿が7例、スカート姿が6例でほぼ拮抗しています。1年ごとにさかのぼって詳しく見てみると、24年と23年は両年とも着物姿3例に対しスカート姿2例で、着物姿がやや優勢。22年は着物姿とスカート姿が1例ずつ、21年は1例のみでスカート姿です。
 ⑧(昭和23年)と⑨(24年)は衣を着ているのかどうかはっきりしません。ただ、そでがはっきり見えるので、本稿では着物姿と位置づけておきましょう(★後掲の図2参照)。この着物姿の⑧と⑨に加え、スカート姿の①(21年。前掲の図1の左)にも見られるように、昭和20年代前半には手足のあるてるてる坊主が目立つのも特徴です。

 また、⑫(24年)もシルエットのみではっきりしませんが、裾がひらひらとはしていないので着物姿とします(★後掲の図3参照)。いっぽう、⑦(23年)の裾もひらひらとはしていませんが、流れるようなデザインなのでスカート姿としておきましょう。

2、目鼻や文字の有無

 第二に目鼻の有無をめぐって。てるてる坊主の顔立ちに注目して、眉・目・鼻・口など顔のパーツがあるものと、それらがないのっぺらぼうのものにわけてみます。すると、昭和20年代後半から30年代にかけてはほぼずっと、前者の目鼻のあるもののほうが優勢でした。そうしたなか、昭和25年、26年、30年、37年の4カ年は両者の事例数が拮抗しています(★表3参照)。

 昭和20年代前半も全体としては、目鼻のあるものが8例、のっぺらぼうのもの5例で、前者のほうが優勢です。不思議なのは、のっぺらぼう5例のうち4例が昭和23年に集中している点。この23年に限っては、のっぺらぼうのもの(4例)が目鼻のあるもの(1例)よりだいぶ優勢です(★図4参照)。

 第三に文字の有無をめぐって。昭和27年から35年にかけては、願いごとを文字にしててるてる坊主に記す作法が毎年見られました(★後掲の表4参照)。しかしながら、それに先立つ昭和21年から26年にかけては、そうした作法はまったく見られません。

3、設置場所

 てるてる坊主の絵がある13例の資料から読み取れる情報をもとに、昭和21年から24年のてるてる坊主の傾向を大づかみにしたところで、続いては絵や写真のない文字資料にも目を向けてみましょう(★表5参照)。

 前掲した表1と表5を合わせて、まず注目したいのがてるてる坊主を吊るす場所。昭和20年代前半の全体をとおしてみると、木には12例(②③⑤⑥⑦⑩⑯⑰⑲㉒㉓㉕)見られます(★表6参照)。

 具体的な樹種が明記されている例としては、茱萸ぐみ(⑩)、南天や柿(ともに⑯)、バラ(㉓)が挙げられます(★後掲の図5左)。なお、先にも掲げた⑤は、縁側から見えるアジサイのそばの棒に吊るされています。ここでは、この棒も木に含めておきましょう(★同じく図5の右)。

 木ではなく軒(⑧⑨⑬㉑㉔㉖)、あるいは窓の外(⑳)や窓際(⑭)に吊るされている例も見られます。こうした軒と窓の内外を「建物の周辺部」として一括りにすると8例を数えます。
 「木」と「建物の周辺部」の事例数を年ごとに比べてみましょう(★前掲の表6参照)。昭和32~39年(1957-64)の8カ年では、「木」が優勢なのは35年のみで、実に7カ年で「建物の周辺部」が優勢。いっぽう、それに先立つ昭和25~31年(1950-56)の7カ年では、29年のみ同数で、そのほかの6カ年は「木」が優勢でした。
 昭和20年代前半も、全体の総数では「木」12例が「建物の周辺部」8例よりも優勢です。ただし、年ごとに比較すると、昭和22年と23年は「木」が優勢、21年と24年は「建物の周辺部」が優勢で、ばらつきが見られます。とくに24年は「建物の周辺部」が6例もあるのが目立つところ。

 木や軒ではない場所も散見できます。『川柳しなの』68号(資料⑮)には、俳人・渡辺幻魚(生没年不詳)が詠んだ次のような句が収められています[『川柳しなの』1947:19頁]。

煽風機てるてる坊主さげてある 幻魚

 また、軒と言えば軒なのですが、窓の外に見える物干竿に吊るされている例も。作文の会から発行された『作文』2巻5号(資料⑫)に「遠足―シナリオ―」と題する作品が収められています。作者は「大阪市阪南小学校六年一組」の生徒一同。その挿絵には、先ほども掲げたように、物干竿に吊るされたてるてる坊主のシルエットが描かれています(★図6参照)。

 あるいは、テントの外に吊るされている例も見られます(資料⑱)。この事例については、またあとで詳しく紹介します。

4、作る動機①(学校行事、野球、登山)

 てるてる坊主を作る機会として目立つのは学校行事。遠足が5例(⑫⑭⑯⑲⑳)、運動会が1例(⑦)見られます。学校行事のほかには、野球観戦や山登りといった、屋外でのレジャーに際してもてるてる坊主が作られています。
 野球観戦を前にしててるてる坊主が登場するのは『光の子供』2巻7号(資料④)。そのなかに収められた、津山栄(生没年不詳)の「児童劇 テルテルぼうず 一幕」という作品です。弟と一緒に野球観戦に行こうとしていたのに、当日はあいにくの雨で、兄がぼやいています[『光の子供』1948:58頁]。

チェッ雨かァ、せっかく楽しみにしていたのになあ、今日は汎心と汎急、北海と九影の二試合があるんだ。雨さえ降らなかったらなァ…目ざましまでかけてはりきっていたのに、——テルテルぼうずを作らなかったのが悪かったかな。昨日きのうひろボウのやつがつくるというのに、「迷信だよ、そんなのは」っていて、やめさしてしまったんだが、テルテルぼうずのせいがおこったかな、それにしてもうらめしい雨だなァ

 山登りを前にしててるてる坊主が登場するのは小説家・南川潤(1913-55)の『いつか来た道』(資料㉒)の「幸福の虹」と題する一節。3人の子どもたちが先生と一緒に赤城山(群馬県。標高1,828メートル)へ登ろうと計画します。しかしながら天候は雨続きという場面です(傍点は原文のママ。以下同じ)[南川1949:177頁]。

「……(前略)……だけど、雨、やまないかしらね。雨がやまないとこまるの。」
「どうして。」
「花田先生と赤城山へのぼるお約束なのに……。」
「それはいいな。僕も仲間にいれてもらいたいね。」
「そうだわ。川瀬さんもいつしよに行きましよう。だけど、にくらしい雨ね。」
「照る照る坊主ぼうずでもつくるんだね。」
空をながめていいました。
「そうね。」
間もなく、庭の小枝には、かわいい照る照る坊主がぶらさがりました。すみ●●で書いた顔も、すぐ雨にぬれてにじんでしまいましたが、部屋の中からは、利子や昭子や章が、てるてる坊主の歌をうたう声が聞こえました。

5、作る動機②(干しもの、日蝕観測)

 学校行事や屋外でのレジャーのほかにも、てるてる坊主を作る機会はさまざま。続いては、仕事や研究のうえで必要なため、好天を願う事例をふたつ紹介します。
 仕事を進めるうえで、てるてる坊主に好天を願っている例は、小説家・野口冨士男(19111-93)の『白鷺』(資料㉑)。「池ノ端七軒町」と題した一節に、たこづくりを生業とする一家が登場します。
 凧屋といっても、一年じゅう凧ばかり作っているわけではなく、3月から5月にかけては鯉のぼりづくりで大忙し。そんな鯉のぼりづくりに追われる日々のある一場面です[野口1949:157頁]。

何にしても場所を取る大仕事だし、乾かさなければ次の手順にはかかれない品物だから、一たん鯉のぼり●●●がはじまつたとなると、ご飯を食べるのも、寝るのも鯉の下、鯉のなかといふ有様だつた。……(中略)……乾きさへすればせいか●●●からはづして、次ののぼり●●●にかかれるのにと思つて、軒端にてるてる●●●●坊主を吊した窓枠へ両方の肘を突くと、掌の平に顎を載せながら母さんと二人で、毎日々々降りつづく春雨の空をしよんぼり見上げてうらんでゐたことなんかも、今は忘れられない思ひ出だ。

 また、日蝕の観測に際しててるてる坊主を作る例に触れているのは、日高昂(1906-)の『社会の発見:若き人々の社会学』(資料⑱)[日高1948:124-125頁]。

礼文島で日蝕の観測が行われた時、その日の天候は観測に不適当と予報されたところ、観測隊の科学者のうちにはテルテル坊主を天幕の外につるして晴天を祈つた。テルテル坊主がきつと明日は天気にしてくれるとはもちろん信じはしなかつたであろうけれども、晴天を願う気持がこのような「おまじない」の形で現れることもあるのである。

 日蝕を観測するため、科学者たちが北海道の礼文島まで出向いたものの、予報は悪天候。そこで、科学者のなかにはテントの外にてるてる坊主を吊るすものもいたそうです。

6、作る動機③(来客)

 あるいは、舟に乗って海を渡ってくる来客がある際にも、てるてる坊主が作られています。日本童話会の『童話』4巻5号(資料㉔)に収められている、滝川和男(生没年不詳)の童話「昭子ちやんのある日」に、次のような場面が綴られています[『童話』1949:29頁]。

昭子ちやんは、今年三つです。
おとうさんと おかあさんと 昭子ちやんの三人は、小さなお舟に乗つて、おばあちやんのおうちへ出かけていきました。
……(中略)……
おばあちやんのおうちでは、昭子ちやんが来るというお手紙が来たので、うち中で毎日、昭子ちやんのうわさをして待つていました。
ことし五年生のひろ子ねえちやんは、きのう、「あした、海が静かだといいわね。」といつて、千代紙でお人形さんをこしらえて、おうちののきにつりさげました。そして、
  てるてる坊主 てる坊主
  あした天気に しておくれ。
と、うたいました。
ですから、きようはお天気で、海は静かです。

 島に住む小学5年生のひろ子ちゃんは、3歳の昭子ちゃん一家が小舟で島にやってくると聞いて、海が荒れないよう好天を願っててるてる坊主を作っています。ひろ子ちゃんと昭子ちゃんは、いとこどうしなのかもしれません。ひろ子ちゃんの願いどおりに当日は好天で、海は静穏でした。
 なお、滝川和男が書いたこの「昭子ちやんのある日」という童話は、かつて紹介したことがある、滝川慈海(生没年不詳)の「おばあちゃんのおうちで」というお話(日本童話会〔編〕『幼児に聞かせるおはなし百選』〈小峰書店、1952年〉所収)とそっくりです。おそらく、滝川慈海と滝川和男は同じ人物なのでしょう。

7、お礼①(酒、鈴)

 続いては、願いどおりに晴れた場合の、てるてる坊主へのお礼をめぐって。この点について触れている事例はふたつ見られます。
 ひとつは新潟日報社の雑誌『なかよし』2巻20号(資料⑩)。そこに、なおいあきら(生没年不詳)の「てるてるぼうずのゆめ」と題された童話が収められています。
 あやこちゃんは遠足の前日、てるてる坊主を作って茱萸ぐみの木の枝に吊るしておきました。一晩たって、遠足当日は好天。あやこちゃんがてるてる坊主にお礼をする場面が次のように綴られています[『なかよし』1949:20頁]。

あやこちゃんは、てるてるぼうずを、赤い小さないすに、かけさせました。
「さあ、てるてるぼうずさん。これ、おかあさまが作ってくださったの。とってもおいしいのよ。」
それは、てるてるぼうずのだいすきな、あまいあまざけでした。
「あやこちゃん。ありがとう。ぼくのだいすきなあまざけ。」
てるてるぼうずは、大よろこびで、こくり、こくりと、そのあまざけをのみました。
……(中略)……
しばらくすると、おへやのとが、すうっとあいて、あやこちゃんのおかあさんが、はいっていらっしゃいました。おかあさんも、うれしそうに、にこにこしていらっしゃいました。
「てるてるぼうずさん。きょうは、ほんとうにありがとうね。これは、いいお天気にしていただいたおれいよ。あけてごらんなさい。」
といって、小さなはこをおだしになりました。
「おばさんありがとう。」
てるてるぼうずは、なんだろうと思いながら、そっと、ふたをあけてみました。
「あっ、すずだ、金のすずだ。」
てるてるぼうずは、思わず手にとってふってみました。
リリンリリンリリン。
「なんていい音なんだろう。おばさん、ほんとにありがとう。」

 願いどおりに晴れたお礼に、あやこちゃんとお母さんからてるてる坊主に向けて、甘酒と金の鈴が贈られています。

8、お礼②(酒、流す)

 てるてる坊主へのお礼について触れているもうひとつの例は、洋画家・小糸源太郎(1887-1978)の随筆集『冬の虹』(資料⑰)。「展覧会」と題する一文にてるてる坊主が登場します。
 小糸は岡山で初開催となる日展の責任者を任されていました。展覧会開幕の前日には、特別に観覧者を招く招待日が設けられていました。その招待日の前夜に、翌日の好天を願う光景が次のように綴られています[小糸1948:262頁]。

床に入つてもどうも眠れない。東京の子供はてるてる坊主を作る、紙の坊主頭に千代紙の衣服を着せて樹に下げる、あしたお天気にしてくれゝば、お酒をかけて流してあげますと約束する。私は指先で、枕へてるてる坊主をいくつもいくつも描いてみる。

 展覧会への招待日の当日が好天に恵まれるよう強く願う小糸は、子どものころにてるてる坊主に願った気持ちを思い出していたようです。小糸が生まれ育ったのは東京。その東京の子どもたちが作っていたてるてる坊主について思いを巡らせています。
 その小糸が思い浮かべるてるてる坊主には、「あしたお天気にしてくれゝば、お酒をかけて流してあげます」と約束しています。もし願いがかなって晴れた場合には、お礼に酒をかけるそうです。さらには、そのあとで川かどこかに流すようです。

おわりに

 最後にもう一度、てるてる坊主の姿かたちをめぐって。先に掲げた小糸源太郎『冬の虹』(資料⑰)では、てるてる坊主の作りかたを「紙の坊主頭に千代紙の衣服を着せて」と記しています。紙で坊主頭を作り、おそらく胴体も一緒に作るのでしょう。そこに千代紙で作った着物を着せた姿です。先述した、スカート姿と着物姿という区分でいえば、着物姿のてるてる坊主です。
 同様に、富国出版社の雑誌『少女世界』2巻8号(資料㉕)にも、着物姿のてるてる坊主が見られます。「読者文芸」欄に寄せられた次のような短歌です。作者は広島在住の松永正子(生没年不詳)[『少女世界』1949:60頁]。

木に結ぶてるてる坊主の紙着物ぬれてやぶれぬわが夢のごと

 てるてる坊主を作って晴天を願ったものの、あいにくの雨。木の枝に結ばれたてるてる坊主は、紙で作った着物を着ていますが、雨に濡れて破れてしまっています。それは、自らの夢が破れたのを象徴しているかのようだというのです。ともあれ、このてるてる坊主もやはり着物姿をしています。

 本稿は昭和20年代前半、具体的には昭和21年から24年にかけてのてるてる坊主をめぐる粗い覚え書きでした。もう少し長い目で見た昭和20年代全般におけるてるてる坊主の動向については、また稿をあらためて検討できればと思います。

参考文献

【表1と表5に関わるもの】(丸数字は表の左端の№に対応。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。)
①南義郎『テルテルボーズノボーケン』、朗書房、1946年
②安泰『童謡画集』第2輯、大日本雄弁会講談社、1947年(「テルテルバウズ」)
③志賀静雄〔編〕『新しい子供たちの愛唱歌』、新興音楽出版社、1947年(「てるてる坊主」)
④『光の子供』2(7)、光の子供社、1948年(津山栄「児童劇 テルテルぼうず 一幕」)
⑤新井五郎〔作・絵〕『よいこと花』、共和出版社、1948年
⑥『銀の鈴』3(5)、広島図書、1948年(鎌田恵美子「雨」)
⑦『小学一年』3(10)、二葉書店、1948年(泉節二「こくご(えにつき)」)
⑧玉井直文〔作〕田中寿太郎〔絵〕『てるてる坊主』、1948年
⑨伴憲三郎『小学生の科学 天気と暦』、清水書院、1949年
⑩『なかよし』2(20)3・4年、新潟日報社、1949年(なおいあきら〔作〕つかごしひさを〔絵〕「どうわ てるてるぼうずのゆめ」)
⑪『少女世界』2(1)、富国出版社、1949年(西塔子郎「てるてるぼうず」)
⑫『作文』2(5)、作文の会、1949年(大阪市阪南小学校六年一組「遠足―シナリオ―」)
⑬『むつの子』4(4)、青い森社、1949年(今睦子「雨」)
⑭新日本文学会〔編〕『東京の一日:ルポルタージュ』、三興書林、1946年(壼井栄「しづかな子供たち」)
⑮『川柳しなの』68、しなの川柳社、1947年(渡邊幻魚「短詩性」)
⑯石井桃子『ノンちやん雲に乗る』、大地書房、1947年(日本文芸家協会〔編〕『少年文学代表選集』1〈光文社、1949年〉所収)
⑰小糸源太郎『冬の虹:随筆集』、朝日新聞社、1948年(「展覧会」)
⑱日高昂『社会の発見:若き人々の社会学』、高山書院、1948年(「慣習」)
⑲いしもりのぶお『なかよし:ながいおはなし』、二葉書店、1949年(「えんそく」)
⑳久保田浩『社会科どうわ』1年生 (なかよしこよし)、育英出版、1949年(「くみこさんのえんそく」)
㉑野口冨士男『白鷺』、大日本雄弁会講談社、1949年(「池ノ端七軒町」)
㉒南川潤『いつか来た道』、偕成社、1949年(「幸福の虹」)
㉓『ゆく春』22(4)、ゆく春発行所、1949年(石崎みよ子)
㉔『童話』4(5)、日本童話会、1949年(滝川和男「昭子ちやんのある日(童話台本)」)
㉕『少女世界』2(8)、富国出版社、1949年(「読者文芸」松永正子)
㉖京都大学法制経済研究会〔編〕『公務員事典』、高文社、1949年(「文化篇」)

【そのほか】
・日本童話会〔編〕『幼児に聞かせるおはなし百選』、小峰書店、1952年(滝川慈海「おばあちゃんのおうちで」)

※ 文中で紹介している動画「昭和20年代前半(1945-49年)のてるてる坊主【てるてる坊主図録Ver.5.1】」において、№11のキャプションに誤りがありました。ここに訂正してお詫びいたします。
 誤:いしもりのぶお〈1897-1987〉
   『なかよし:ながいおはなし』
    二葉書店、昭和24年(1949)
    (「えんそく」)
 正:『むつの子』4(4)
    青い森社、昭和24年(1949)
    (今睦子〈生没年不詳〉「雨」)


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