ひとり人事が自分以外の全社員を嫌いになりそうになった話。
他のメンバーと自分の温度感の違いに辟易して、でもその気持ちをどうにも消化することができず、ただひたすらに涙を流すしか選択肢がなかった時。
『なんでもっと自分たちの会社に誇りを持てないんだよ』
ただ自分は「会社がもっとより良い方向に向かえば」と祈り、その祈りを現実にするために、行動し続けていたのに、それでも周りはついてきてくれない。
『なんでもっとみんながひとつになれるような行動を取らないんだよ』
「人事」という生き物がたまたまそういう性質を持っているからなのか、はたまた偶然そういった資質を持った人が「人事」という仕事に就くのかは甚だ理解の及ばない部分ではあるが、とにかく前の僕は、そんな憤りとも、怒りとも、悲しみとも、悔しさとも違う、それこそ漱石が残した「鉛のような」気持ちがお腹の底に溜まっている感覚が気持ち悪くて仕方なかった。
『理解できない、そう思えていないみんながおかしいんじゃないか』
どれだけ自分が強い想いを”ポジティブに"発したとしても、秋風がなぞったような共感と賞賛だけを感じることができ、それ以上のカロリーを持った対話には到達しないことがほとんどだった。
そんな中、たまたま出会ったのが、こんな考え方。
例えば、何かを「遠い」と形容したとする。遠いというのは、何かしらの尺度を持って冠する言葉であり、常に何かと比較をして存在している。それすなわち、何か他の「近い」ものと比べたときに「遠い」と形容しているということ。
僕は今、大阪の梅田にある自宅でこれを書き記しているが、梅田駅は「遠い」と感じる。しかし、実はさっき東京から帰ってきたばかりなので、東京と比較をしてみたら梅田駅なんて「近い」以外の何物でもなくなる。
つまりこれは、最初は梅田駅を何か他の場所(おそらく家から2分もかからないコンビニ)と比較して「遠い」と形容し、僕が新幹線に乗った品川駅と比較したら「近い」と形容されることになり、すなわち「形容詞は相対的なものである」と言えることがわかる。
さて、ここで戻るのが、僕が感じていた鉛のような重い気持ち。僕は異様なまでに「熱い」気持ちを持っていたし、おそらく組織に対して「強い」気持ちを抱えていたと思う。
実は、ここに落とし穴があり、僕はフラストレーションを抱えていたことに気がつく。
僕は「0→+∞」のベクトルの気持ちを抱えていたことになるが、そう解釈されるのは「-∞→0」のベクトルの気持ちを抱えていた”何か”がそこに存在していたから、僕の気持ちが存在していた事になる。
もう少し言い換えると、僕が「強い」気持ちを持つことができていたのは、組織が「弱い」状態だったからである、ということ。
つまり、僕が周りに対して「もっと!もっと!」と、僕自身の温度を上げながら、組織全体の温度も同時に上げようとしていたのは、原理上ありえないことをしようとしていたことになる。
「組織の温度を上げる」「組織を強いものにする」という理想状態があったときに、まず初めにしなければならないのは、それを主導するリーダーたちが「弱い」状態になること、「弱い」気持ちをしっかりと見せてあげることである。
逆に僕は「組織が弱かったからこそ、強くあらしてもらえた」という解釈すらできるかもしれない。
周りへの期待が大きく削がれ、戦意を喪失し、投げ出したくなりそうになっていたあのときに、「形容詞は相対的である」ということに気がつくことができて、本当に良かったなと思う。
これでまた、僕が理想とする「強い」組織に近づくことができました。
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