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ルターの宗教改革 ソリ・デオ・グロリア

 『私がここに座って、

うまいヴィッテンベルクのビールを飲む、

するとひとりでに神の国がやってくる。』

ルターの言葉です。
先日「宗教改革とペスト」について
書いたので、
宗教改革について
さらっと触れてみました。

*95ヶ条の論題*

当時のマインツ大司教アルブレヒトの「指導要綱」には
贖宥行為の濫用がみられるとして
ルターは書簡『95ヶ条の論題』を送り、
その『95ヶ条の論題』はドイツ国内で広く出回り、
カトリック教会の体制への不満がくすぶっていた
国内の空気に火をつけることになりました。


アルブレヒトは、
自らの収入の道が絶たれてはたまらないと
ローマに対してルターの問題を報告。
ローマ教皇庁は大きな問題とは考えず、
穏便に解決するよう命じましたが、
1518年の総会でルターが自説を熱く語り、
総会後には教皇レオ10世に対して
自らの意見を書面にして送りました。
教皇庁では教皇権に関する部分をとりあげ、
教皇の権威を揺るがす危険性があると指摘しました。

*信仰による義*


ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)の
庇護を受けることになりました。

ルターが1520年に発表した文書では、
教会の聖職位階制度を否定し、
聖書に根拠のない秘跡や慣習を否定し、

また、人間が制度や行いによってでなく
『信仰によってのみ義』とされるという
彼の持論を主張します。
レオ10世は、41か条のテーゼを撤回しなければ
破門すると警告しましたが、
ルターはこれを拒絶したため、
1521年にルターの破門が正式に通告されました。

[ヴィッテンベルクマルクト広場に立つルター像]


*破門*

ヴォルムス帝国議会において、
著作で述べられていることを
撤回するかどうか尋ねられたルターは、
自説の撤回を拒絶。
聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。
私はここに立っている。それ以上のことはできない。
神よ、助けたまえ」
と述べました。

議会が処分を決定する前にルターは消息を絶ち、
フリードリヒ3世のヴァルトブルク城にかくまわれました。
1521年のヴォルムス勅令で、
ルターを帝国追放にすると通告。
異端者としてルターの著作の所持を禁止したのです。

ルターは、ヴァルトブルク城で
偽名を用いて一年余りを過ごし、
有名な新約聖書のドイツ語訳を行いました。

ルター不在の状況で、
ヴィッテンベルクでは過激派が
リーダーシップをとり、
教会の破壊など、
市内が無法状態の様相を呈するようになりました。

1522年、見かねたルターが
人々の前に再び姿を現し、
説教で過激派を糾弾、
暴力を伴う改革を否定し、
行き過ぎを警告しました。

カトリック教会では伝統として
聖職者の独身が守られていて、
そのため司祭であったルターも
独身生活を続けていましたが、
徐々にその意義について疑問を持つようになり、
結婚によって肉体的欲望は正当化され
罪にならなくなると考えるようになったのです。

ルターは数多くの修道者たちに
結婚を斡旋するようになり、
自身も41歳のときに
元修道女のカテリーナと結婚し、
三男三女をもうけました。

また、「聖書に書かれていないことは認めることができない
というルターの言葉は、
農民にも希望を与えたのです。
農民が領主に仕えることも
聖書に根拠を見出せないという考えでした。

[ルターが説教をした市教会です]

*プロテスタント*

かつてルターの同志であった
トマス・ミュンツァーはこういった人々の
リーダーとして社会変革を唱えるようになっていきました。

ルター説を根拠に農民たちが暴力行為に走ると、
ルターはミュンツァーと農民たちを批判しましたが、
さらに再洗礼派の過激な教説も
農民暴動の火に油を注ぐ結果となり、
1524年から1525年にドイツ農民戦争が起こってしまいました。

次第にルターは反乱側にではなく、
市民・貴族・諸侯の側について、
平和な抵抗を訴えるようになり、
領主たちは徹底的に農民暴動を鎮圧し、
首謀者たちを殺害したのです。

トマス・ミュンツァーも捕らえられて
処刑されてしまいました。
ルターはこの苦い経験から教会と信徒に対して、
何らかのコントロールが必要であると考え、
領邦教会という新しい教会のあり方が生まれていきました。

1529年の帝国議会では
カトリック教会の破壊などの行き過ぎを反省し、
ルター派支持諸侯たちの立場を認めながら、
カトリック教会の立場も保全するという布告が行われたました。
しかし、ザクセン選帝侯を初めとするルター派諸侯は
これに対し抗議を行い、

このことからルター派諸侯と諸都市は
プロテスタント(抗議者)」と呼ばれるようになり、
やがてルター派の総称となりました。

カトリックに対しての
プロテストではなかったことを知っておく必要があります。
キリストの教えを政治に悪用するのは、
昔も今も変わらないようです。



*聖書の翻訳*

ルターは精力的な活動の一方で
聖書の翻訳事業も続け、
1534年に念願だった
ドイツ語旧約聖書を出版しました。
このことによって、
一般庶民も自分で聖書を
読むことができるようになりました。

グーテンベルクの印刷機
がこの時に発明されたことも
大きな意味があったのです。

*歴史の見方*

さて、この文章を書いたのは2016年でした。
それから5年がたちました。
《宗教改革とペスト》という視点はありませんでした。
過去に起きた事実としての歴史は変わりませんが、
歴史の見方は時とともに変わるのだと思い知らされました。


*ソリ・デオ・グロリア*


ソリ・デオ・グロリア
(ただ神にのみ栄光、ラテン語:Soli Deo gloria)とは、
プロテスタント宗教改革で、
基本的な信仰をあらわすために提示された
五つのソラ(five solas)の一つです。
それは神にのみ栄光というラテン語の
言葉です。

難しいトピックスを最後まで
読んでいただきありがとうございます。



[ヴィッテンベルクの街]

#ルター #宗教改革
#プロテスタント
#ヴィッテンベルク

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