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恋と学問 第19夜、もののあはれとエコノミー。

源氏物語の「帚木の巻」で展開されたコイバナ、いわゆる「雨夜の品定め」について、前回は内容の紹介しか出来なかったので、今夜は本居宣長の解釈に踏みこみます。前回を読まなくても分かるようには書くつもりですが、気になるかたはそちらも読んでみてください

宣長が注目したのは次の発言です。

【源氏物語・原文】
ことが中になのめなるまじき人の後見の方は物の哀れしり過ぐし、はかなきついでのなさけあり、をかしきにすすめる方なくてもよかるべしと見えたるに

これを谷崎潤一郎は次のように訳しています。

【谷崎訳】
いったい女の仕事の中で、何よりも大切な、夫の世話をするという方から見ると、もののあわれを知り過ぎていて、何かの折に歌などを詠む心得があり、風流の道に賢いというようなところは、なくてもよさそうに思えますけれども
(谷崎訳「源氏物語」1-63)

しかしながら、宣長の解釈に従って訳せば、これとは全く異なる訳文が出来あがります。

【宣長の解釈に従った訳文】
物事をいい加減では済まさない人が、家政の方面で物の哀れを熟知していれば、花紅葉の折節に情けを掛け、風趣に富んだことに敏感である必要はなさそうに見えますけれど

いずれの解釈を採るにせよ、「家政と風流のどちらが欠けても理想の女とは言えない」ということを、言いたい文章であることは間違いなく、そこに隔たりはないものの、谷崎が「物の哀れしり過ぐし」から「風流の女」の説明が始まっていると見るのに対して、宣長はそこまでを「家政の女」の説明と見て、「はかなきついでのなさけあり」からが「風流の女」の説明だと解釈している点が、大きく異なります。この宣長の解釈に基づいて、「家政の方面で物の哀れを熟知していれば」と訳したのです。

また、谷崎は原文の「後見」を「夫の世話をする」と訳していますが、私は宣長の解釈に基づいて「家政」と訳しました。少し固い言葉かも知れませんが、「日常の家庭生活を処理してゆくこと」(精選版日本国語大辞典)という意味です。英語のエコノミー(経済)は、古代ギリシア語のオイコノモスが語源で、オイコノモスはオイコス(家)とノモス(法)の合成語であり、「家庭を運営・管理する方法」という意味です。家政とは、この「本来の意味におけるエコノミー」に対応した日本語になります。

宣長の解釈はかなり斬新です。私たちはふつう、「もののあはれ」という言葉の響きから、桜の散りぎわの風情や、悲嘆に暮れる人の顔などを想像し、そういったものに心を動かされることが物の哀れだと思っています。まさか、炊事・洗濯・裁縫・掃除・家計のやりくりといった家政術にも、物の哀れがあるとは思いません。宣長の解説を聞きましょう。

さて物の哀れといふ事は、万事にわたりて、何事にも其の事其の事につきて有る物也。故に「後見の方の物の哀れ」といへり。是れは家内の世話をする事につきて、其の方の万事の心ばへをよく弁知したる也。世帯むきの事は、ずいぶん心あるといふ人也。世帯むきさへよくば、花紅葉の折節のなさけ風流なる方はなくても、事かくまじきやうなる物なれども、何事にもすぐれてよき人とするには、風流の物の哀れをしらではいと口惜しきと也
(岩波文庫版「紫文要領」81頁)

物の哀れということは、特定の対象にかぎったことではなく、対象が何であっても構わず、普遍的に存在するものです。だから作者は、「家政の方面の物の哀れ」と書いたのです。これは家庭を運営して管理する家政術について、配慮すべき所を隅々までよく知っているという意味です。家庭的な事柄には、ずいぶんと心得がある人のことです。家庭環境の維持と改善さえ正しく出来るならば、花紅葉の折節に情けを掛けたり、風趣に富んだことに敏感だったりしなくても、別に問題ないではないかと思われがちだけども、何事にもすぐれて「善き人」とするには、やはり「風流の物の哀れ」も知らなくては不十分であり、とても残念なことであると作者は言うのです

もう少し説明がほしい所です。「家政にも物の哀れはある」と言われても、いまいち腑に落ちない所があるのは、その具体的な現れ方を、私たちがイメージ出来ていないからです。家政を行う際、物の哀れはどのように出現するのでしょうか?宣長は「浪費」(無駄づかい)の例えを使いながら説明を試みています。

世の中にあらゆる事に、みなそれぞれに物の哀れある也。故に帚木の巻には「後見の方は物の哀れしり過ぐし」といへり。されば家内の世帯むきの世話する中にも、物の哀れといふ事はある也。それはいかやうの事ならんといふに、まづ世帯をもちてたとへば、無益の費えなる事などのあらんに、これは費えぞといふ事をわきまへ知るは、事の心を知る也。其の費えなるといふ事を、わが心にああ是れは費えなる事かなと感ずるところは、是れらの事にもある也。これを後見の方につきて、事の心を知り物の哀れを知るなり。無益の費えあれども、それを何とも思はず、みだりに財宝を費すは、是れ費えぞといふ事を心に感ぜぬなれば、後見の方の物の哀れしらぬ也。此の心をもて推して知るべし。後見の方の物の哀れも、なほさまざまの事有るべし(97頁)

世の中のあらゆることに対応して、それについての物の哀れがあります。だから作者は、「帚木の巻」において、「後見の方面で物の哀れを熟知していれば」と書いているのです。家庭生活の処理をしてゆく中にも、物の哀れを感じる場面はあるということです。具体例をあげてみましょう。所帯を持っていて、一家の経済を管理する立場の人が、無駄な浪費をしてしまったと仮定します。その人が「これは無駄づかいだったな」と認識するのは「事の心を知る」からです。それが無駄づかいだったということを、心の中で「ああ、これは何という無駄づかいだったことだろう」と感じるところは、日常的な場面にもよくあることです。このことを指して、家政の方面について「事の心を知り」「物の哀れを知る」というのです。無駄な浪費をしても、それを何とも思わず、一家の財産を乱費する人は、「これは無駄づかいだったな」ということを心に感じない人ですから、「家政の物の哀れ」を知らないのです。その他のことは、今の例から類推してください。家政の物の哀れにも、さまざまな種類があるでしょう。

ここで宣長は何を言っているのでしょうか?・・・肝心な所ですから、少しだけ哲学的な補足をしてみます。

ある物を買って、それが無駄な買い物だったと思うのは、そのお金を別のことに使えば、もっと理想の暮らしが出来たであろうにと、心に思い描いているからに他なりません。この際、理想は何だっていい。便利な暮らし、愉快な暮らし、合理的な暮らし。大切なのは理想の中身ではありません。理想があればこそ「無駄だった」という認識がありうる。この「認識と理想の関係」です。

しかし、人は理想に動かされて認識を行うのではありません。順序が逆です。理想は認識の前提ではないのです。見たいように物を見ることを認識とは呼びません。それは単なる「偏見」です。人は自己の理想を「前もって」知ることは出来ない。理想は認識によって「遅れて」発見される。宣長の「もののあはれ論」の現代性はここにあります。対象を認識し、遅れて、その対象に含まれる「モノ」(動かしがたい価値、自己の理想)を発見する。この時に私の心に湧き出るのが、「アハレ」としか名付けようがない感情です。

思い出してもらいたいのは、第3夜にくわしく述べた「モノ」「ノ」「アハレ」という言葉の語源的な成り立ちのことです。「モノ」は「動かしがたいこと」という原義から転じて運命・制約・道理・法則、「ノ」は後者の所属や場所が前者にあることを指示する助詞、「アハレ」は共感の感情のことでした。今の例に当てはめるならば、「家政の方面の物の哀れ」とは、家庭生活を営む中で発見された、自己にとって欠かすことが出来ない動かぬ価値(モノ)に深く共感して、これを味わうことに他なりません。「自己に共感する」というのは変な言い方ですが、未知の自己を発見して感動することも共感の一種です。

だから、「日常にありふれた、どんなささいな事柄にも、それについての物の哀れが対応して存在する」という宣長の言葉は、「私たちが行う、どんなささいな認識にも、その裏には自己発見の感動が貼り付いている」と、読み直さねばなりません。

ようやく分かりやすくなって来ました。ここで卑近な例を出しましょうか。私は料理を好んでしますが、どんな料理を好んでしているか振り返ることで、私は料理についての私の考え方を知ります。その奥にある、私の生活の理想を知ります。家庭生活を「くりかえされる平凡な日常」などと蔑む必要などないのです。何も感じない人にとってみれば、この日常はたしかに味気ないものでしょう。しかし、それは対象である家政のせいではありません。家政というモノの味わいを知らない人、家政の物の哀れを知らない人間の側にこそ、原因があります。

家政の物の哀れを感じ取れる人は違います。他者の運命を知って共感すること、つまり、他者の物の哀れを知ることは他者理解の道ですが、家政の営みによって自己に固有の価値を発見すること、つまり、家政の物の哀れを知ることは自己発見の道なのです。未知の自己を発見し、その精神の姿形と歩み方に共感すること。これもまた物の哀れを知ることだと、宣長は語っているのです。

さて、キリが良いので、いつもより短めですが、このへんで。

それではまた。

おやすみなさい。




【以下、蛇足】




今回はなんと、源氏物語の中のほんの数行を解釈した宣長の文章についての感想を書いただけで、まるまる一回分を使ってしまいました。それだけ難解な箇所だったということです。宣長が使っている言葉に難解な専門用語など(「もののあはれ」を除けば)まったくないにもかかわらず、これだけ複雑で深遠な思想を語っていることは、まことに驚くべきことです。複雑な事柄を指示する語彙に恵まれているはずの現代人が、全然複雑なことを語れていないのと好対照です。「宝の持ち腐れ」とはまさにこのことで、私たちは宣長の文章を見て反省すべきことがたくさんあります。

次回は紫文要領の第2部「善悪と物の哀れ」の核になる主題、「勧善懲悪」について論じます。

文学は善を勧めずに何を勧めるのか?
悪を懲らしめずに何を懲らしめるのか?

お楽しみに。

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