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恋と学問 番外編その2、更級日記について。

更級日記の作者で、平安女流文学を代表する作家の菅原孝標女は、源氏物語の最も早い愛読者でもありました。その読み方はじつにユニークなもので、私たち現代人に失われた、文芸作品と読者との間に結ばれ得る、濃密な関係を示しています。

堕地獄説でも聖人説でもない、かと言って本居宣長のように、紫式部の真意を探ろうとしたのでもない(前回を参照)、作者の源氏読解をありようを知ることで、本との関わり方の可能性を押し広げようとするのが、今夜のねらいです。

紫文要領を中断してまで、更級日記に寄り道するわけは、前回のテーマ「源氏物語の誤読史」に関わる話だからでもありますが、何より、源氏物語をリアルタイムで読んだ人々の生々しい衝撃を肌で感じることには、特別な意義があると思うからです。

それではさっそく、更級日記の記述から知られる作者の生涯を見ながら、「彼女にとって源氏とは何だったのか」を考えてみましょう。

作者の生まれた年は現在、源氏物語が成立した年とされる西暦1008年です。むろん単なる偶然ですが、この個性的な源氏愛読者のことを思うと、浅からぬ因縁を感じます。作者の人生は、源氏物語がまたたく間に当時の人々の心に浸透してゆく過程と共にありました。

ちなみに、ちょうど千年後の2008年、私が高校最後の1年間を過ごしていた頃、世間は源氏物語の「千年紀」と称して何かと騒がしく、私が京都の大学に進んだのも、その騒ぎに刺激された側面がありました。これも偶然と言えば偶然ですが、偶然が個人の人生に与える影響は馬鹿にできないことの実例として挙げておきます。

話を戻しますと、作者が少女時代を過ごしたのは、現在の千葉県市原市です。役人の父が上総国に赴任したからですが、田舎で育ったという条件は、作者の心に、京の文化にたいする強烈なあこがれを植え付けました。わざわざ等身大の薬師仏の像を用意して、「私を京に連れていって」「ありったけの物語を読ませて」と、日夜懇願したと言います。あこがれを通り越してクレイジーになっていたようです。

13才になる年に、父が上総国の任務を解かれ、新たに京に職を得たことで、作者の念願は叶いました。しかし、この道中が悲惨です。千葉県松戸市では乳母が父親不明の赤子を出産し、静岡県の天竜川のあたりでは作者が重く患い、やっとの思いで京に着きました。

京に着いてからも悲惨が続きます。継母が家を去ります。生みの親が突如として現れます。産後まもない乳母が死にます。火事になり、我が家と愛猫を失います。腹違いの姉が幼い子供を残して死にます。ここまでで作者は17才になりました。以上はわずか5年間で次々に見舞った惨事でした。

作者は不幸だったのでしょうか?そして、「あの頃の私は不幸だった」と回顧して更級日記を書いたのでしょうか?どうも事情は違ったようです。

人もまじらず、几帳の内にうち臥してひき出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ(中略)光るの源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ(「更級日記」岩波文庫、1963年改版、22-23頁)

たったひとりで、几帳の内に突っ伏して、引っ張り出した本を読む喜び。后の地位?それが何だと言うのだ。光源氏の夕顔、薫大将の浮舟のようになれたらよいのに・・・・

14才になる作者の真心です。

物語を読んでいる時だけは、悲惨な状況を忘れていられた。不幸な家族の一員、歯車の一部になるのではなく、物語の登場人物に重ねることで、おのれが主人公となる夢の世界に生きることができた。これを「現実逃避としての文学」と呼んでも、何ら差しつかえはないのですが、そう呼ぶことで作者の読み方を軽んじたり、否定したりするのは慎むべきでしょう。

たしかにこれは、宣長が目指したような正しい読み方とは違うかもしれません。なにしろ、二人の貴公子の愛を受けとめるために、自殺を図るも死にきれず、しまいには発狂した浮舟を、まるで白馬に乗った王子さまに見そめられたヒロインのごとく思っているのですから。紫式部の意図に反すること、甚だしい誤読ではあります。しかし、作者は誤読によって救われたのです。その事実の重みを無視することはできません。

前回のお話で取り上げた人々の誤読と比べてみても面白いでしょう。紫式部は地獄に堕ちたとか、実は求道者で聖人だったとか、やかましく主張していたのは、不道徳な物語に魅了されたことへのアレルギー反応でした。要するに、彼らは世間の常識に向かって弁明していたのです。私は淫乱な物語に魅せられたのではない、どうか誤解しないで欲しい、と。

更級日記の作者は違います。大いに誤読だったかもしれませんが、それは、自らを救おうとした結果です。作者の読解のベクトルは、あくまでも、おのれに向かっていました。今の時代、ここまで思いきって自分勝手かつ自己本位の読み方をする人はまれです。

逆に、なぜ現代の読書人は自分勝手に本を読まなくなったのでしょうか?これは案外に重大な問いです。答えは「本よりも読者が偉くなったから」だと思います。世の中には数えきれないほど本が氾濫していて、その中から読者は自分の問題を解決してくれる言葉を自由に選べるようになった。自分勝手に読むまでもなく、自分勝手に選べるようになった。

その昔、まずもって本は希少でした。そして、今では想像できないほどに、世の人々が本に価値を認めていました。ひとりでは解決困難な人生の問題を、解き明かしてくれるものとして、本は期待されていました。つまり、彼らにとって本は「聖典」だったのですが、私たち現代人の多くは、膨大な数の本の中から「己の聞きたい言葉を語る本」を探すことを読書だと思っています。聞くべき答えは読者があらかじめ持っていて、それを語る本を見つけると合格の印を押す。本よりも読者が偉くなったとは、この事態を指しています。

作者は誤読であったにせよ、救済の異世界を夢見たいと願って源氏物語を開きました。言い換えれば、少なくとも「他者の声」としての本と向き合っていました。これは、本と人間の関係における、あるべき形のひとつだと思います。同時に、おのれによく似た姿を本に認めて満悦するたぐいの読書人が、作者の誤読を笑うのはお門違いではないか、とも思います。

長い脱線を経て、そろそろ作者の生涯に戻りましょう。

作者は32才で初めて宮仕えをします。宮廷社会、すなわち源氏物語の舞台に立てて喜ぶのかと思いきや、たちまち適応障害を起こしてしまいます。まわりの同僚はみんな年下で、相談できる人も少なく、困惑を解消できないままに年が暮れます。

33歳にして結婚をします。子供をもうけて、遅まきながら家庭の平凡な幸せを知るわけです。物語のこともしばらくは忘れていました。しかし、いつもどこか心の片隅に満たされない思いがあり、作者はしだいに神仏にすがるようになります。石山寺、長谷寺、広隆寺などに籠って、夫と別居したこともありました。

結局、宮廷の仕事も家庭の生活も、作者の心を満たすことはなかったわけですが、それでは一体、作者は何を求めていたのでしょうか?作者本人は神仏への帰依に心のより所を求めていますが、日記の記述から察するに、それで心が満たされていたようには思えません。

唯一、楽しげに書かれているのは、宮仕えをしていた35才の冬に、貴族で同年代の源資通から声を掛けられて、春秋の優劣を競って歌を交わしたことくらいで、残りの記事はどれも、満たされない心の淵にうずくまり、世の中を諦めた目で眺めているような、暗い心理を基調としています。

そこからさらに十数年、更級日記の結末は、信濃国に赴任することになった夫が任地に着いてまもなく死んだとの知らせを受け取り、その後さらに残された家族も離散して、たったひとり本当の孤独を味わい、≪さらしなの歌≫を詠み上げた所で、あっけなく訪れます。さらしなは姨捨(をばすて)に掛かる枕詞です。

月も出でて
やみに暮れたる
をばすてに
なにとてこよひ
たづねきつらむ
(同69頁)

月も出て闇に暮れた姨捨山のように
孤独の闇に打ち捨てられた老婆である私を
なにゆえ今宵は訪ねてくれたのですか
ありがたいことと存じます

この歌は不意に訪ねてきた甥っ子に宛てたことになっていますが、実際は、読者に宛てた歌だと思います。言うなれば、「長々とこんな老人の戯れ言を聞いてくれてありがとう」と謝辞を述べて、更級日記は幕を閉じるのです。

・・・・さて、作者の生涯を見届けた今、私たち読者の胸に去来する哀しさの正体は何でしょうか?

更級日記は日々に起こったことを少しずつ書き綴って形を成した、普通の意味での日記ではありません。作者が50代になってから自らの生涯を振り返って書いた文章です。今の言葉では「自伝」と呼んだ方が適切でしょう。自伝には必ずテーマがあります。生涯を貫いて存在した「根本感情」を言葉にしたくて、自伝は書き出されるものです。作者の場合それは、「物語ばかりに熱中して神仏に頼らず生きてきたことへの悔恨」でした。

更級日記は物語への「敵意」にあふれています。物語なんぞにうつつをぬかして、神仏の加護を省みなかったために、今の孤独(さらしな=をばすて)があるのだ。50代の作者はそのように回顧します。

典型的な例をひとつだけ挙げれば、結婚の記事における次のような回想です。

その後は何となくまぎらはしきに、物語のことも、うち絶え忘られて、物まめやかなるさまに、心もなりはててぞ、などて、多くの年月をいたずらにて臥しおきしに、おこなひをも物詣をもせざりけむ。このあらましごととても、思ひしことどもは、この世にあんべかりけることどもなりや。光る源氏ばかりの人は、この世におはしけりやは。薫大将の宇治に隠しすゑ給ふべきもなき世なり。あな物狂おし、いかによしなかりける心なりと思いしみはてて、まめまめしく過ぐすとなれば、さてもありはてず(同46-47頁)

結婚後は何かと忙しく心が紛れて、物語のこともすっかり忘れてしまい、所帯じみた心に成り果てて、改めて過去のおのれをふりかえってみると、どうして多くの歳月を無益に過ごして、勤行も物詣もせずにおったのだろうと悔やまれる。かつて私が空想に明け暮れた物語に描かれる世界は、はたしてこの世に実在するものか?光源氏ほどの男は、この世のどこにいるというのか?今は薫大将が意中の女を宇治に隠し据えるはずもない時代ではないか?ああ!馬鹿馬鹿しい!我ながら何とわけのわからない心だったのかと、この時つくづく思い知ったのだが、それでは以後改心して真面目に生きたのかと言えば、市井の生活者としての生き方に徹するわけでもなく(以下、省略)

どうしようもないほど物語に、夢の世界に、閉じ込められてしまっていて出口が分からなくなっているのです。生活者として生きることも、信仰者として生きることも、作者の気質からは出てこないものです。天が作者に与えた唯一の能力は「夢を見ること」でした。作者はそのことを知らなかったはずはありません。知っていながら、晩年の作者は物語を嫌悪し、夢の世界を呪ったのです。

昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて、おこなひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし(同68頁)

昔から、物語や歌といった、わけのわからないもので心を埋め尽くして、ここまで生きてきてしまった私だが、常日頃から神仏に思いをかけて、信仰深く生活を営んでおったならば、このような夢の世を見なかったのであろうに・・・・

これが、日記のクライマックスに置かれた、作者の心からの絶叫です。

夢を見る能力とは、言い換えれば、「世界を哀れ深いものとして味わうセンス」のことです。このセンスを作者は少女時代に源氏物語から培いました。それが、作者にとっての現実だった、家の没落、社会不適合、夫の死、離散、孤独などに向けられた時、作者の感性は容量を超過し、この世を耐えがたいものに感じた。晩年における信仰の世界へのあこがれは、教義への共感でも思索の結果でもなく、おのれの夢を見る能力の大きさを呪い、作者が宗教に期待していた、超感性的で没感情的な世界としての「悟りの境地」に逃避したいという、これまた自分勝手で自己本位の動機に基づくものだったのです。

以上で、更級日記の読解を終わります。私は冒頭で、「源氏物語をリアルタイムで読んだ人々の衝撃」と言いましたが、今夜述べてきたことは更級日記・作者の個性的な読解であって、時代に共通する特徴ではなかったかもしれません。

ただ、最後に付け加えておきたいのは、13才から数えて40年もの間、あきることなく源氏物語と付き合い続け、その間、あるいは愛し、あるいは嫌悪して、とうとう離れられなかった作者のような、じつに濃厚な本との関わり方は、この時代の人々に共通のものであり、私たち現代の読書人の本との関わり方とはまるで違うということです。

ひとことで言ってしまえば、彼らは本に恋していたのです。

それではまた。おやすみなさい。




【以下、蛇足】




今回は、予定を変更して、前回のテーマ「源氏物語の誤読史」のスピンオフをお話しました。

更級日記は偉い国文学者の先生方によって、同時代の「蜻蛉日記」の写実主義と対比されるロマン主義だとか、平安時代後期の社会情勢の反映だとか、さまざまに解釈されていますが、どうも合点がゆかないので筆者なりの見方を提示してみた次第です。

次回こそ、紫文要領「第2部/善悪と物の哀れ」に入りますので、そちらもご期待ください。

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