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宇治十帖のゆかりを歩く 2023/1/1(前編)石山寺

2023年1月1日。滋賀草津のホテルで眼を覚ます。今日の予定は二部構成になっている。紫式部の伝説を残す観音信仰の霊場「石山寺」に行くこと。宇治十帖最後の舞台である「小野の里」に行くこと。

まず、草津駅から石山駅に移動する。石山駅を降りると、「紫式部ゆかりの花の寺」の看板に出迎えられた。

石山駅にて

ここから京阪電車に乗り換えて石山寺駅という手もあったが、歩くことにした。町の雰囲気を知らずに名所だけ見て帰る観光は趣味ではない。

町の印象は、とにかく寂しい所という他になかった。理由は正月だから、だけではないようだ。この町は静けさに慣れすぎている。

石山の町並み

途中、目立ったものと言えば唯一、エホバの証人の「王国会館」くらいだ。東海道新幹線の高架下という立地で「王国」を名のられても、さぞかし国王は寂しかろうと気の毒に思った。信仰を茶化す気はない。キリスト教会の常で、扉が半開きになっていたから、チラっと中を覗かせてもらうと、正月にも関わらず熱心に祈りを捧げる信徒たちの姿があった。

高架下の王国

徒歩30分、ようやっと石山寺に着く。この寺は平安時代、奈良の長谷寺、京都の清水寺と並んで三観音と称された名高い霊場であるが、同時に千年もの間、紫式部に関する伝説を保存してきたことでも知られる。・・・とうの昔に葬られたはずの伝説を。

石山寺 本堂

河海抄云、西宮左大臣、安和二年太宰権帥に、左遷せられ給ひしかば、藤式部おさなくより馴奉りて、おもひなげくころ、大斎院より上東門院へ、めづらかなる草子や侍ると尋ね申させ給ひけるに、うつほ、竹取やうの物語は、めなれたれば、あたらしく作り出して奉るべきよし、式部に仰られければ、石山寺に通夜して此寺を祈り申けるに、折しも八月十五夜の月、湖水にうつりて、心のすみわたるままに、物語の風情空にうかびけるを、わすれぬさきにとて、仏前に有ける大般若経の料紙を、本尊に申うけて、まづ須磨、明石の両巻を書はじめけり。これによりて須磨の巻に、こよひは十五夜なりけりとおぼし出て、とは侍るとかや。後に罪障懺悔のために、般若一部六百巻を、みづから書て奉納しける、今にかの寺に有と、云々
(秋山虔[監修]「批評集成・源氏物語◆第一巻◆近世前期篇」ゆまに書房、1999年、226頁)

【現代語訳】
河海抄いわく。時の左大臣・源高明(914-983)が969年に太宰府に左遷させられたのを、幼い時から可愛がってもらった紫式部(970?-1019?)は悲しみ嘆いていた。その頃、選子内親王(964-1035)は中宮の彰子(988-1074)に、「珍しい物語はありませんか」と求めた。宇津保・竹取といった古い物語は見慣れていることだから、せっかくなら新しく作って献上したいと考えて、彰子は紫式部に相談した。紫式部は石山寺に夜通し籠って、神仏に祈りを捧げていると、ちょうど中秋の名月が湖水に映って、心が澄み渡ってゆき、物語の風情が空に浮かんできたので、忘れぬうちに書き留めておこうと、仏前にあった大般若経を、本尊のお許しを請うてから使って、まず須磨と明石の2巻を書き始めた。この由来によって、須磨の巻には「今宵は十五夜であったな、と光源氏は思い出して」という記述があるのだとか。紫式部は後年、罪滅ぼしのために、再び石山寺を訪れて、般若経全600巻を自ら書写して奉納したという。その実物は今もなお、この寺に保管されている云々。

以上が伝説の全てである。たんなる俗説と済ませられたなら良かったが、これが源氏物語の研究において最高の権威を誇った河海抄(1362年頃の成立、時の左大臣・四辻善成の著)に記されてしまったことで、非常にやっかいな問題になった。

江戸時代に吹き荒れた学問の新風は、こういった「権威ある俗説」の一つ一つについて、毅然とした態度で臨んだ。論拠を示さないかぎり決して承服しない、と。紫家七論の著者で水戸藩に仕えた国学者の安藤為章(1659-1716)も、その一人だ。彼は伝説の隅々まで攻撃してやまなかった。

西宮殿(※源高明のこと)の左遷のころは式部はおさなかるべし、もしは生れざる前の事なるべし(同頁)

源高明左遷は969年、紫式部の生年は諸説あるが、少なくとも970年より遡らないと言われている。まだ生まれていないのだから、幼い時に可愛がってもらった可能性は万が一にもない。

物語の風情そらにうかびけるまま、忘れぬさきにとて、須磨、明石より書はじめたりとは、式部が心のうち也。それを後の人いかに知侍りけんと、独笑せられ侍る(同頁)

創作のインスピレーションは作者の内面のみに関わることだ。それを後世の人がなぜ知るか?出鱈目すぎて失笑を禁じ得ない、と。

為章わかき程此河海の説を信じ、彼自筆の般若見まほしくて、石山寺にてあひしれる坊に逗留して、其事を尋ねさぐり侍りしに、はやく空言にてぞ侍し。但源氏の間と名づけて、式部が画像をかく。此ころやうの机、硯などを設たるは、何れの世、何人の好るにや(227頁)

そんな彼も若い頃は、河海抄の言うことを素直に信じていた。紫式部が書写したという般若経を見たくて、わざわざ知り合いに頼んで寺に泊まらせてもらったという。文字どおり「聖地巡礼」である。この時に彼が思い知ったことは、自筆の般若経など元より存在せず、明らかに後づけでこしらえた物を、紫式部使用の机だの硯だのと称して、観光収益のために展示する、興ざめな営業努力の実態だった。

ちなみに、それは今もある。

源氏の間

江戸の昔は「画像」を飾ったらしいが、令和の今は出世して、ご立派な「御所人形」がこちらを見つめている。不気味である。私も安藤為章のように笑うつもりでいたのに、実物を前にすると、どういうわけだか笑えない。

この「源氏の間」の不気味さは、人形の見た目ではなく、幻想の根強さに由来する。読者の文学史、という観念からやって来る。

本居宣長(1730-1801)は、石山寺伝説について、安藤為章より冷淡だった。

須磨の巻の詞に、こよひは十五夜とあるを、十五夜に書ける証とせば、初音の巻に、けふは子の日なりけりとあるも、正月子の日に書けるといはん歟
(本居宣長「紫文要領」岩波文庫、2010年、11頁)

今宵は十五夜だと本文にあるだけで十五夜に書いた証拠になるならば、別の所で今日は子の日だと書いてあるのも子の日に書いた証拠になるじゃないか。・・・なかなかに意地悪な書き方だ。

しかしながら、江戸の思想家たちが笑い飛ばして決着をつけたつもりでいた「伝説」が、今もこうして平然とした顔をしているのは何なのか?読者の文学史は、何の権利があって、学問の客観性を無視できるのか?私は心中の不気味を圧し殺しながら進んだ。

「源氏の間」がある本堂を離れて、寺域を散策していると、宇治川の時に見たものより古そうな「紫式部像」があった。1979年の建立だそうだ。

紫式部像

背面に碑文が刻まれていたから読んでみる。

紫式部と石山寺
紫式部は右少弁藤原為時朝臣の息女で、上東門院の女房をつとめていた。一条院の御伯母選子内親王より、「面白い話があるか」と女院に尋ねられたので、女院は紫式部に命じて源氏物語をつくらされた。式部はこの物語がよく出来るように、石山寺に七ケ日の参籠をした。石山寺から琵琶湖を見渡した式部は、心が澄み切って様々の風情が眼に入り、雄大な構想が浮かんで来た。早速その内容を記そうとしたが、料紙などの用意もなく、内陣に置いてあった般若経の料紙の裏に、本尊のお許しを祈りながら、心に写る風情を書きつけた。後にお経の裏を使ったことのお詫びに、般若経一部を書写して奉納した。これは、今も当寺にあるという。此の物語を書いた所を「源氏の間」と名付け、そのまま現存している。紫式部を後の人達は観音の化身と申し伝えて来たのである。
石山寺縁起より意訳

紫式部像 背面の碑文

そら来た。河海抄とほとんど同じ内容だ。この石山寺縁起の本文は正中年間(1324-1326)の成立というから、河海抄より数十年は古い。つまり、石山寺縁起が「種本」となって、河海抄を始めとする無数の同工異曲が奏でられたのだ。そして、伝説は江戸時代の学者たちによって打撃を被りながらも、令和の世にまでしぶとく生き長らえているというわけだ。

文芸作品は読者に支持されなければ生き残らない。これは事実である。残った作品を古典と呼び名作である証とする。これもある程度は妥当と言える。しかし、読者によって残らされた作品は正しく理解されているか?これはかなり怪しい。作品の実像は多くの場合、読者の属する時代の通念という「特定の視点」によって歪められている。

紫式部伝説に持ち込まれた「特定の視点」とは何か?これがさしあたっての問題だ。私は石山寺縁起と河海抄の相違点に注目する。二つの文章は一見すると良く似かよっていながら、後から出来た河海抄の方に重大な変更が加えられていることに気づく。それは「紫式部が般若経を書写して寺に奉納した理由」である。

石山寺縁起は、「お経が書かれた裏紙を使ったお詫びに」と、はっきりとした理由を挙げている。河海抄はそれを削除して、「罪障懺悔のために」奉納したとする。紫式部は何の罪障を懺悔したのか?河海抄の作者が、それをあえて、あいまいにしたのは何故か?

端的に言って、河海抄の作者は、源氏物語を創作したことを以て、紫式部の罪状としたのである。石山寺縁起には見られない、大変ユニークな視点が持ち込まれたことになる。恋の物語を創作すること自体、犯罪的な行為だと言うのだから。

河海抄の圧倒的な権威は、民衆が紫式部に抱いたイメージを、500年近くも固定してしまった。源氏供養という能の演目は、源氏物語に魅了されていながら、魅了されていることに罪悪感を抱く民衆の心理を、作者である紫式部にも投影して、この罪人を供養せねばならぬと結論するに至る、曲芸的な思考の産物である。

どうしてまっすぐに、恋の物語として読めないのか?本居宣長の出発点はそこにある。民衆がどうしても「特定の視点」から見てしまうのは何故なのか?彼らは勧善懲悪の物語として読んだり、不道徳で淫乱な物語として読んだりするが、どちらにせよ、恋が人生の主題であってはならないかのようだ。善悪より上位の価値があってはならないかのようだ。恋の価値を肯定するのは、それくらい心理的に抵抗が強いことだった。

読者の文学史は生きている。「源氏の間」が今もなお、ここにあるように。むろん、恋の物語を創作したことを罪に思う人は今やいないだろうが、とはいえ、恋の物語の創作という一点だけで紫式部を礼賛する勇気のある人が、どれだけいるか?善悪を超えた価値基準で人を評価することは、今でもハードルが高いのである。

石山寺は読者を安堵させる。紫式部の信心深さ、高潔な人格といったことの方が、彼女の成し遂げた恋の探究よりも褒めるに値する。そのように思う読者たちの総意で、学問的に否定されようがお構いなしに、「源氏の間」は保存されている。今日的な例えで言うならば、アントニオ猪木のことを、彼がプロレスラーとして私たちに見させてくれた夢によってではなく、むしろ国会議員としてイラクの人質を救出したことによって褒めるのと、同型の心理状態である。私たちは夢の大きさで人の値打ちを測ることに不慣れなのだ。だから、弱められた形ではあるが、河海抄が設定した解釈の枠組みの居心地のよさから、いまだに脱け出せていないのだ。自覚があるかは別として。

紫式部像の前で以上に述べたような思考をめぐらしていて、ずいぶん長い時間が経ったように思う。思考の行き着いた先で私は、あることにハッと気づく。本居宣長が紫文要領の中で、あれだけしつこく勧善懲悪のことを攻撃していたのは、こうした全てのことを分かっていたからなのだ。読者の文学史の不気味なまでのしぶとさを知っていたから、どうせ焼け石に水になる、言ってもせんないことだ、と分かっていても、言わずにはいられなかったのだ。それがあのような冷淡かつ執拗な物言いに繋がるのだ、と。

彼の文体の秘密に触れた気がした。それだけで充分だ。私はこの小さな収穫に満足して、石山寺をあとにした。

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