禅的写真論
両手を打ち合わせれば音がする。では、片手の音は?
ネゲントロピー
創作とは、材料に対して一定の形式(フォーム)を付与することである。詩ならば言葉に韻律を、音楽なら周波数にスケールとコードを、絵画なら色彩に階調と形態を。写真の場合、外界というカオスをフレーミングすることで「解釈」を提起する。現実は「こうでもありうる」と。それは一種の翻訳であり、世界認知モデルの秩序を脱構築することで、エントロピーを低減する作業でもある。
シュレーディンガーは生命の本質を、「負のエントロピーを食べる存在」と定義した。しかし人間の場合、外部のエントロピーを材料に負のエントロピーを生み出す能力がある。カオスに秩序をもたらすこと、ネガティヴ・エントロピーを生み出す能作が、ネゲントロピーである。
意識の志向性
意識は常に「…の意識」である。フッサール以降、現象学の基本テーゼ。意識は対象を求め、対象と結び付いて初めて「現象」する。ヨーガ的に言えば、プルシャとプラクリティが結合することで、「マーヤー(幻影;現象)」が生じる。
では、対象なき意識、「意識それ自体」は可能か?それは「物自体」ではないのか? 物自体に到達可能ならば、それは如何にしてか?
意識によって意識を意識する。この矛盾を可能ならしめるのが禅である。
主語-述語
志向性を有する意識の構造は、「主語-述語」関係に還元できる。 A=Bという事態は解釈であり、翻訳である。つまり述語は主語の翻訳にすぎず、述語に囚われている以上、我々は主語に到達できない。どれだけ述語を継ぎ足し並べても、ひたすら主語から遠ざかるだけ。言葉によって始-源へは至れない。それは言葉より前だから。
意識が志向性を外部へと向けている以上、差延は無限に拡大し続ける。己でないもの、己を「翻訳」し「解釈」した「何物か」を己と勘違いし続ける。終わりなき自己疎外。これが輪廻の正体である。
A=B, B=A, A=A
A
公案としての写真
禅とは何か?この問い自体が主語-述語の罠に嵌っている。その危険を承知であえて説明すれば、それは主語へと還ること、述語によって述語を超えること、「見られるもの」から「見るもの」となること、見るものという意識すら超越すること、これである。やや外的に表現すれば、エントロピーを余すことなく捨て去ること、そのための技法が座禅であり「公案」。それは一切の解釈、翻訳を赦さない。
述語を順節的に継ぎ足せば、迷妄を深めるばかりである。ただでさえ混沌とした認識をさらに混濁させるのみである。言葉は根本から迷いであり妄想である。矛盾である。矛盾によって矛盾を破砕すること、いわば反物質的に対消滅させること、それが公案禅の狙いである。
優れた写真集は公案的である。現在も根強い影響力を持つベッヒャー派の場合、具体的な事物を収集、並列することで、その物のイデアを直観させる(給水塔シリーズ等)。いかにもヨーロッパ近代的な帰納アプローチだが、未だイデアを実体視している。イデアによってイデアを破壊すること、この世がそもそも実体なき現象でしかないこと、一切は意識でありそれすらも「空」であること。それを示唆することができれば、写真は自律し完結する。
結び
禅は神秘思想ではない。それは意識のプロセス、機能を自己回帰的に引き込み、全ては自己認識にすぎないことを自覚させる手法である。言葉は意識作用の射影であり、自己分裂の残滓である。何かを表現した途端、対称性は破れ、エントロピーは増大する。そして言葉という迷妄にがんじがらめに捕縛される。この言葉という鎖を言葉によって断ち切ること、それこそが公案である。言葉とは文字や口語だけではない。表出された情報の全てである。
写真は自己と外界の境界に生じる幻影、「マーヤー」である。マーヤーによってマーヤーを破砕するとき、一切は空である。